表現をすることでじぶんの輪郭が浮かびあがり、色が濃くなる
表現はこころを救いあげる “最後の砦” だとおもう。
抽象的に感じたことを抽象的に表現することが学生時代の救いだった。音楽は感じたものをことばにしなくても、ひとに伝え、共鳴することができた。楽器を吹いている間は不安やもやもや、恐れから解放されていた。じぶんの世界を構築しつつ、誰かに音の響き、波動にのせて伝える。音を聴けばそのひとらしさや気分まで伝わってくる。
じぶんのことをわかってもらえてる気持ちになり、居場所があった。ひとつの目標に進むためにことばを交わすことはあったが、なにを言っても日本語がおかしくても、丁寧に伝えれば受け入れてくれる安心感があった。感情を自己を抽象的に表現できていたからだろう。そんな環境に甘えていた。
音楽を取り除いたとき、抽象的な感覚や感情をことばでひとに伝えるのがとてつもなく苦手であることがわかった。たいせつな自己表現の道具がなくなってしまった。
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ことばのコミュニケーションは瞬発性を要する。その場で言わないと、伝わりかたも異なってくるし、タイミングを逃すと言えなくなって、わだかまりをのこしてしまう。ことばがでるのをまっててくれない相手もいる。一方的に感情を吐き捨てられることもある。
心身共に限界だったとき、考える余裕すらなくて、感じたことを感じたまま口からだすしかなかった。相手のため息が聞こえてきた。伝えることを諦めた。
現状を変えるために、外側に助けを求めなければいけなくなった。
じぶんのことをあまり知らない相手にもちゃんと事実と思ったことが冷静に客観的に伝わるように、論理性を身につけ、考えるようになった。すこし生きやすくなったが、生きにくくもなった。
頭で考えてでることは、こころで感じたこととは違ったからだ。周囲の顔色を気にした結論が生まれる。
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瞬発的なコミュニケーションをとらなくても、こころを知ってもらえるのが表現だと思う。そのとき表面にでているじぶん以外も知ってもらえる。内側を覗いてもらうことはすこし恥ずかしいが、それ以上のものがある気がしている。
ことばでもことば以外でも想いを響かせることができれば伝わる。
noteで表現することはじぶんの生きた証。
こころが動いた証のようなものを残せる道具だと思っている。
こころから湧きでてくる感情がなくなったら、もうロボットだ。たのしくもないし、かなしくもないし、くやしくもないし、おいしくもないし、なんのために生きてるんだろう。そんなことを思いながら、日々を繰り返す。
感情を二度となくさないように、じぶんのこころには嘘をつきたくない。こころを無にしてだましだまし生きていたら、輪郭が薄れてきてしまう。染まってしまう。
表現はじぶんのこころを感じ、色濃くしていくためにするものでもあるのだ。
日々服を選ぶ。そんな些細なことから表現をしていきたい。こころが動くような。
表現する余裕がないことはこころの余裕がないことにも繋がり、余裕がないときは表現することで感情が湧きでてくることもある。
新たな感情も発見できる。
12/8 追記
絵でこころを表現した。穏やかなときと、ざわめいているとき。
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