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ワークにアンチな読書会の報告会を。

自分が所属する文芸部で読書会をやったので報告です。

題材として選んだ本はこちら、『14歳からのアンチワーク哲学』です。なんと著者であるホモ・ネーモさんから3冊もご提供いただきました!

事前に現物の本が手に取れる場所に置いてあったこと、そしてさらに全文が無料公開されていたことで事前の共有がしやすくて、読むことへのハードルが下がり興味を持ってくれる人が増えた気がします。

その結果、読書会自体は過去最高の盛り上がりでした。
今年度から文芸部の活動として週一回程度の読書会を開催していました。ですが今までは読んでくる人が少なかったり議論が難しかったりして、いつも少数の人だけが最後まで話し合ってて残りは離脱、ということも多くありました。
しかし今回は解説の途中で質問があったのを皮切りに最後まで質疑応答が途切れることがありませんでした。狭い部室ですが、入りきらなくて立ち見が現れるほど空気も熱くなりました。前代未聞です。

それでは具体的な質問や意見などを振り返っていきます。
あくまで今回の記事の内容は読書会で僕ができる範囲でした回答に過ぎないので詳しくはホモ・ネーモさん本人の記事をお読みいただくか、公式discordサーバーなどで質問してみてください。

・ベーシックインカムで労働をなくせると主張しているが、その財源はどこから来るのか?

→ここではそれは議論しない。アンチワーク哲学とは現段階ではひとつの思考実験に過ぎず、その実現可能性に関しては議論が横道に逸れるので扱わないこととする。ただし、著者は現代貨幣理論に基づき、足りないなら刷ればいいと主張している。

・貢献欲というものがうさんくさい。人間は相互扶助に基づき助け合うことがあるというのはわかるが、貢献というのは助け合いに比べ一方通行的な感情であり、それが欲として成り立つというのはおかしい気がする。

→これに関しては生殖と性欲の関係に似ていると思う。人間という生物には子孫を残すための生殖という機能があるが、それは各個体に関しては性欲という形で表れている。人類は相互扶助によって発展してきたが、それらは個人の感情ベースでは信用と貢献という形で発露しているのだ。

・貢献欲というネーミングに疑問が残る。欲というのは、いわゆる三大欲求のような生存・種の繁栄に基づくものにだけ与えられる名前ではないのか。

→金銭欲や承認欲求という言葉もある。貢献することが欲と呼ばれることに値しないと考えるのならば誰かを助けると言った行動をとったとき、その動機をむりやり偽善や情けは人のためならずと解釈することより不自然なのか。

・ベーシックインカムによって人間が金による支配から自由になったとして、それが実現した世界では大勢の人を動員して行うようなプロジェクトはできなくなるのではないか。例えば残り寿命が少ない人がどうしても叶えたいことがあるが今から準備する時間もないし他人に対して信用も特別ない、そのような状況を想定したとき金を用いず行うことはできないということか。

→アンチワーク的世界の中ではそのような強制労働は行われず、必要なだけの動員される人間がやりたいと思わない場合、(幾何かの必要以上の金銭と彼への同情的な優しさを除き)誰かに何かをやらせることはできない。というか、そのような(彼以外の)誰も望まないような場合自然と人は離れるしそのプロジェクトが他の誰かにとっても魅力的だった場合は協力者は現れるだろう。

・アンチワーク哲学は哲学ではない。哲学を名乗るのをやめてほしい。

→質問者は哲学という言葉をいわゆる哲学者の研究・分析という意味で捉えているのだろうか。その辺の言葉は感性の範囲だと思う。ただ、個人的には既存の概念に対し新たな視点を投げかけることは十分哲学の範疇だとおもう。社会学や文化人類学など著者の見識が多岐に渡るが故の誤解なのかな、とも思った。

・アンチワーク的世界観の中では貨幣の価値は低くなり、流通をスムースにするための道具としては存在するが、貨幣を多く所持しているほど社会での地位が高くなるような、またそれによって他者を強制的に使役するような用途はなくなると主張している。だが、結局貨幣という道具が残っている限りそれはモノ(カッコいいギターやおいしい料理)として形を変えながら、それを所持している人物の権威を上げ続けるのではないだろうか。貨幣だけを否定するのではなく、そのような物資こそを管理・分配するべきではないのだろうか。

→確かにアンチワーク哲学は欲望を否定しないし、カッコいいギターが欲しいなら必要以上に貢献をしたりしてそれを得ることを否定したりはしない。ただ、ギターはそれを持っていると誰もが羨むといった性質のものではなく、精々それに詳しい人にしか価値がわからない。また、ギターは見る人によって価値が変わるのでそれを渡すと誰もが喜んで労働を行うというものでもない。そしてまた、貨幣の全てを否定し物資配給でのみ生存に必要な物を満たすという主張はいわゆる共産主義だが、それだと中央に管理する組織が必要になる以上歴史上の過ちを繰り返す可能性がある。あくまで人間の欲望に基づくのがアンチワーク哲学であり、貢献欲や物欲を否定するものではない。

・ベーシックインカムで金銭による、ある意味万能のコミュニケーションが行えないとなると、結局そこは信用が通貨のようにふるまう信用経済のようなものが立ち現れるのではないか。そこでは現代の経済的弱者が生まれるのと同じように信用的弱者が生まれてしまい、そういった人たちは助けられないのでは?

→現代でもお金を稼ぐために嫌々仕事を覚える人がいる。そしてもし信用が重要な世界になったらきっと誰もが他人に対して理不尽な要求(モンスタークレーマー・毒親)をするといった行為をすることは控えるだろう。こういった問題は貨幣がもたらした特異的な現象にすぎず、どちらかといえば信用経済の方が自然である。


このような議論が起こりました。本当はもっといろんな観点からの質問があったのですが、自分が解答できた範囲でのみ今回は解説しています。また、あくまでこれはアンチワーク哲学を元にした僕の勝手な理解による回答ですので恐らく間違っているところ、そうじゃないんだけどなーみたいな回答もあると思いますが、その辺は議論を重ねながら理解を深めていけたらなと思います。

そして余談ですが、開催した場所が大学ということでブルシットジョブなどの概念についてあまり浸透しておらず、アルバイト的労働の観点からの疑問も多かったような気がします。これはどこで議論させるかによって色が出そうな興味深い結果だったような気がします。傾向などがあるとおもしろいですね。彼らに刺さりそうな説明を考えておきます。

今回この読書会を開催してみて、ぼく自身の理解の至らぬ点を多々発見することができました。参加してくれた方々、ネーモさん、本当にありがとうございました!

その他議論のおおまかな流れ、議事録は以下に掲載しておきます。

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