見出し画像

テーマ文「練習」

1,000文字 60分


練習と言われるものを嫌悪してきた人生だった。
私は何一つだって、自分の身になることだって、練習によって成し遂げたことはなかった。
私にとって練習とは私が生誕以来してきたこと以外の全てだった。

練習という言葉には(目的を持って、)という一文が必ず隠されている。
もしくは、それはただの授業の名目として(合唱練習、など)確保されてきた時間のラベル、それ以上の何物でもなかったかもしれない。
何らかの目的アリ、繰り返しできるまでやる、(できれば自主的に行うのが望ましい)、といった具合だ。
最終的にはオトナが満足顔になるまでみんな揃って放課後まで歌わされる、これが私にとっての「練習」の全てだった。
こういった意味でみんながこの言葉を捉えていて、それがこの通り自分が今提示したものと寸分違わないなら、私が全く練習をしたことがないというのも納得ではないだろうか。
練習が好きな人間なんかいない。昨日まではそう思っていた。

私は1ヵ月前から般若心経を筆ペンでコピー用紙に書き写すことをしている。いわゆる写経というやつだが、それが意外と楽しくて最近チャンスがあればやらないではいられない。
机に向かってノートと教科書を開き勉強を始めるまでの時間、何も考えずに覚えた語呂と漢字だけを紙に書いていく。脳内は読みを黙読するのでいっぱいだ。
最初はスマホの画像を見ながらボールペンで、次は見ずに書いてみて、間違えたところは確認と修正、書き順を覚え、難しい漢字を手が勝手に書けるようになるまで繰り返した。今では誤字をしてしまうこともだいぶ減って、字が綺麗に見えるようにトメハネハライを意識している。

今まで写した枚数は数えてないが、多分30枚くらいだ。
私は、少しずつ上手くなっていく筆運びに、間違わなくなっていく順番に対して「練習」という言葉が思い浮かんだ。
はたしてそれは他人の脳内から移植された言葉としてではなく、私のこの行為、少しずつ上達し新たな目標を見出し機会を見つけ行おうとする営為を表現するものとして表れた言葉だった。

練習というものは他人に強いられた目標ではなく、反省と改善の性質を持ちながらもなぜだかどうにも止められない、そんな「ばかげた」ものに使ってもいい言葉なのだと気付く。いやむしろそちらの方がいい。

私はこれから文章の練習をしようと思った。これからはテーマを設定して読みやすい文章を書けるように改善点を見出しながら練習していきたい。

いいなと思ったら応援しよう!