自分と他人を許す勇気 われ必ず聖なるにあらずだね
こいつだけは絶対一生許せないという奴は、誰でも1人ぐらいはいるよ。
どう考えても100%相手が悪いし、ひどい仕打ちをした非道ぶりを考えると、絶対許せないし、許しちゃいけないと思うよね。
だけどもこう考え続けている間は、心が安らぐことは基本的にないだろうね。
地獄を信じている人はそんなに多くはないと思うけれども、恨みや憎しみで心がいっぱいの時は、地獄をさまよっている感じがするよね。
そこでどうしたらいいかなんだけれども、参考になるのはやっぱり聖徳太子の17条憲法だと思うよ。
そこにはこう書いてあるんだよ。
人みな心あり、心おのおの執(と)るところあり。彼是(ぜ)とすれば則ちわれは非とす。われ是とすれば則ち彼は非とす。
結局、相手には相手の論理というものがあって、自分を正当化しているんだよ。
そしてそれは無理矢理変えさせることはできないしね。
だからとりあえず相手の考えというのも受け入れてやらないといけないし、それが理解するということだろうしね。
そして、相手を理解してあげるという事は、愛したことでもあり、許したことでもあると言われているしね。
キリスト教的に言えば、復讐するは我にありということだろうね。
これは日本の映画のタイトルにもなったけれども、その意味は、人間は復讐しちゃいけないよということだよ。
復讐するのは神様の仕事だからね。
そういえば昔、ロードオブザリングを撮り終わった後のピータージャクソンがラブリーボーンという映画を作ったね。
これは女の子を狙った性犯罪者の極悪非道な生活ぶりを描いたものだったけれども、最後の最後に、神様が復讐をしてくれるんだよ。
やっぱり相手を憎んだり、こき下ろしていると、端から見て人間としての品格は高いとは思えないからね。
憎んだり憎まれたりするというのは、結局、同じレベルで争っているということでもあるしね。
やっぱりそこから抜け出す必要はあると思うよ。
そこで人格というものを高めるという意識を持持たないといけないね。
人格が優れているということは、やっぱり寛容さがあるということだしね。
寛容になるためにも、自分の不完全さというものを認めないといけないよ。
17条憲法にはこうも書いてあるよ。
われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫のみ。
神様の目から見たら、ほぼ全ての人が平凡人なわけだからね。
ちょっとくらいの優劣の差で、目くじらを立ててたら、本当に愚か者と言われても仕方がないよ。
結局、人格の高さ高さとは、見識の高さだし、感化力の強さでもあるからね。
感化できていないということは、まだまだ自分の人格も大したものではないということになるしね。
それを認めた上で、またコツコツと再出発することが大事だよね。