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苦悩にとらわれない心を持つ 自分を向上させる道の入り口かもしれないよ

辛いことや苦しいこと、すごく嫌なことがあると、大体みんなまずは逃げたいと思うよね。

まぁ仕事とか、どうしても逃げられないんだったら我慢するけれども、そのかわり、おいしい食べ物を食べるとか、ストレス解消やりすぎて依存症になったりする人も多いよね。

それでこの苦しみとか不幸とか、あるいは苦悩とか言うものとどう付き合っていくかということが、結構、恵まれた人ほど苦手なんだ。

そこでどうしたらいいかと言う事なんだけれども、とても参考になるのがアウシュビッツで、生き延びたお医者さんのビクトールフランクルが書いた「意味による癒し」と言う考え方なんだよ。

この人はアウシュビッツを送りになったわけだけれども、その時に大事に隠し持っていた自分の最初に書いた本の原稿を奪いとられてしまったそうだよ。

それで絶望して、生きている意味が全然なくなってしまったように感じたんだね。

ところがガス室送りになった別のユダヤ人の上着をもらって、そこに手を突っ込んだら紙切れがあったそうだよ。

それは、旧約聖書の1部で、あなたの神様にいつでも祈りなさいと書いてあったんだけれど、そこでひらめいて、少しずつ紙切れを集めて原稿を書き直すことにしたんだそうだよ。

そうしたらボロ紙を集めて書くことに生きがいが出てきて、最後まで生き延びることができたんだね。

つまりどんな苦しい事でも、そこに何らかの「意味付け」ができると、同じ苦しい事でも、全く見方が変わって、耐えられたり、あるいは生きがいにさえなったりするんだそうだよ。

ところが同じアウシュビッツの人たちでも、今の自分の苦しみのほうに心が集中していると、絶望してしまって、生きている意味が見出せなくなって、ちょっとした病気ですぐに死んでしまうんだそうだよ。

だから、ビクトールフランクルは、苦しいことにぶつかった時と言うのは、価値の選択を迫られていると言ってるよ。

全く自分を無価値と思うか、それとも何か価値あるものへ向かって自分を動かしていくか、そのどちらかを選ぶのは全く自分の意思で、自由にできることだと言っているんだよね。

つまり何か意味あるものや、世界への奉仕につながるようなものに心を向けていて、自分を高めたいと思っていれば、苦しみと言うのは、そのための踏み台になり得るんだと言うことだろうね。

それで面白いのは、このビクトールフランクルの患者さんで、奥さんに先立たれてしまって、鬱状態になった人の話があるんだよ。

とても奥さんを愛していたので、失った悲しみに耐え難くて、鬱が2年間も続いているんだね。

そこでこのビクトールフランクルが、「想像してみてくださいよ、もしあなたが先に死んでしまって、奥さんがその悲しみに耐えるのとどっちがいいと思いますか」と聞いたそうだよ。

そうしたら、そのうつで苦しんでいた人が、奥さんが苦しむ代わりに、今自分が苦しんでいるんだと気がついて、そこからどんどん鬱が良くなっていったと書いてあったよ。とっても面白いね。

同じ事実でも、捉え方によって、全く意味が変わってくるわけだよ。

これは松下幸之助さんが昔言っていた、道は無限にあると言う考え方に近いのかもしれないね。

仏教では苦集滅道と言う考え方があるけれども、同じだろうね。

苦しみの中に道を見出して、それが仏様になる悟りの道につながっていくんだからね。

全くお釈迦様と言う人は、本当にすごくて、もう何も言えないよ。

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