赤ずきんちゃん気をつけて

 塩野七生が、エッセイでこんなことを書いていた。

 芥川賞と直木賞は何が違うのか、彼女が問うと、芥川賞の選考委員の一人が言った。そこに猫がいる。じっと見ていても飽きないようなそのようすを描写するのが直木賞。芥川賞は、猫の腹をナイフで一裂きにして、中がどうなっているかを見せるのだ、と。

 塩野七生はそこで、「どうしよう、あたし猫好きなのよ」と、その場にいた庄司薫に助けを求めたという。では、彼女の日比谷高校の後輩でもある、その庄司薫の芥川賞受賞作『赤ずきんちゃん気をつけて』はどうだろうか。

 昭和という時代の大きな曲がり角と直面しての衝撃と混乱のなかで、それでも明るい方向を求める青年を通じて、彼自身も、そして、東大紛争というものも切り裂かれていたように思う。ほとんど読まずに批判する人が多かったらしいのも、庄司の東大紛争への立場がイデオロギー上の支持でも敵対でもないことがイラつかれたせいだろうが、まだまだ余韻に酔っていた彼らが見たくもなかった東大紛争の帰結が、そこには確かに描かれている。

 私が片道一時間の電車通学なんか苦でもなかったのは、電車では寝るか何か読んでるかだったせいで、スマホがなかったおかげで、いろんなものが読めたわけだが、起きているのに電車を乗り過ごしたのは『赤ずきんちゃん…』以外には、ほんの数冊ではないかとも思う。ひとつには純粋にそれが面白かったからであり、もうひとつには、庄司薫が東大法学部で師事し、小説にも登場する丸山眞男の政治思想のテクストを、私が大学のゼミで、そして大学院でじっくり読んでいたせいでもある。学問的に緻密で正確なのに、どうにも刺激が強く、嫌いなひとは徹底的に嫌いなのだが、学会での彼の様子を見ていた人は「あの人は反論しない」「それはもうそこに書いてあるからってこともあるし…」でその後を濁した。とにかく絡まれやすい大物だったのである。

 いま読むと、たとえば戦争放棄についての“現実主義”への批判などはやや苦しいくらいで、ほんとうはあくまでもベクトルとしてそれが放棄されてはならないって思ってたんじゃないかとさえ読めるが、いまと違って「全く反論を受けつけない反戦の立場」が文字通りお話にならないのとは大違いであった。それはGHQの尻馬に乗っただけではない、マスコミではない、実際に学徒出陣した研究者として命懸けの論陣を張った世代が最前線にいたせいでもある。

 一方の保守本流もまた、頭でっかちな理想主義ではないにしろ、それでも共和党に支持されたトランプ米大統領など夢想さえできない威厳ある教養主義は蔑ろにしなかった。田中角栄のようにそんな枠を超えた大物もあったが、冷戦下だからこその保守長期政権だったことを割り引いても「俺は学者なんか嫌いだ」と国会答弁でおなじみの栃木弁で言い放った渡辺美智雄は総理にはなれなかった(…まあ、あのひとは、それでも“あっけらかんのカー”だったかも知れないが)。首相経験者は蔵書が図書館にもなる大平や、ミッテランの前でさらっとフランスの哲学者の言葉を引用できる中曽根、それにどうしようもない女性問題で辞任したのさえ「明鏡止水の心境であります」くらいは言ったものだ。つまり、昭和の一般大衆が教養主義だったわけで、対抗する側はそれ以上に学問的であることが要求された。平和がいいに決まってる、は、せいぜいロックフェスくらいのもので、私の記憶にある共産党には、というのも、私の生まれ育った街は実に十六年に渡って共産党市長の下にあったのだが、ほんとうにこうるさいほどのインテリしかいなかった。そうして、左右の知識人が束になって口角泡を飛ばそうとも、なかなか届かないものがあったのが丸山眞男という泰斗だったのだが、東大紛争は「ナチスさえここまでの蛮行には至らなかった」と言わしめたほど、丸山の研究室にも研究活動にも徹底的な侮辱の爪痕を残したのだった。『赤ずきんちゃん気をつけて』では、主人公の兄が東大で丸山眞男に師事していたことになっている。それもまた、東大紛争の、昭和の教養主義に示した敵意と、迎え撃つ側の虚しさの一例なのだが。

 誤解されないようにもう一度強調するが、LSEで教鞭をとった経済学者の森嶋通夫も呉の海軍基地で暗号解読をしていたし、丸山眞男は原爆投下直後の広島の惨状を目の当たりにし、戦後しばらくたっても広島を訪れることができなかったほどの衝撃と心の傷を抱えて学究活動にあたっていた研究者である。もはや語り部さえ世を去りつつある今、そういう世代が反戦を唱えていた頃とは論調がズレていくのは当然だろう。私が「橋頭保」という言葉を知らなかったら、慶応の指導教授に「君それだから、先輩男子研究者諸氏にものを知らなすぎるって呆れられるんだよ」と注意されたが、そう、<平和がいいに決まってる=軍隊的なことはなんでもダメ>なんて図式は政治学科の院生にはありえなかった。

 世間では、そういう単純な図式で理解されやすいようにふるまった方が得することもあるだろうが、私はどこかで意地悪く、そんな図式を見つける度に「け、いっそのこと、搔っ捌かれちまえ」と思っている性分らしい。バブルの狂乱のなかでグローバリズムにさも明るい未来があるように見え、そもそもポスト冷戦であんなにも国際政治が重要視されていたのに、ぜんぜん流行らない政治思想史なんか専門にしようとはしなかったのではないか。

 私自身は、中尊寺ゆっこの漫画にさえ取り上げられた浅田彰なんか、ちら読みだけして“知るか”と思ってたし、留学先のイギリスでもフーコー、フーコー、と、言語学も史学もフーコー旋風のなかにあったのに、まあいつかこの騒ぎも収まるわよ、とばかりに、一次史料にがっつり取り組む方に専念したが、哲学の方のポストモダンの余波がちょっと遅れて政治学の方にも及んできた頃に政治思想を専攻した人はもっと洗練されていることだろう。政治学科の方ではその後どう展開したのか知らないが、史学の方に関して言えば、流行りにうまくのりました、ってだけでは、どうせ簡単に尻尾が出る。だいたいは時間がないから、史学科のなかでも歴史理論をきっちり読みもせず理論にのっかるせいで、定義が甘くて混乱する。こっちは英語が苦手なままの“お遊学”なんだから、そんなもん読んでる時間はないのだ。それでもEU圏の学生と同額負担まで学費を下げてくれた奨学金授与も、フィレンツェへのリサーチ費用の一部負担も出してくれた英国には、一方ならぬ恩義もある。だが彼らは、自ら混乱のなかにあって手探りで進む、そのありのままの姿を見せてくれただけで、見栄の方に乗っかれ、との指示はなかった。“ラディカールに学問する”連中というのは、右だろうが左だろうが、搔っ捌いちまえ、の方だろう。なるほど、女には向かない商売、とも言われてきたわけである。

 矢尽き刀折れて、私の場合、そんな日々も時間切れで終わった。だが、それよりも、日本のことを説明しろ、と言われることが多かったのが、一度外に出ていちばんよかったことかも知れない、と今は思っている。戦勝国イギリスは植民地を失っての没落を、敗戦の“焦土から立ち上がった”日本は右肩上がりの経済成長を続けた。紅茶と女王の国の教養主義、は、いまだに英国留学の魅力とされてはいるが、ストッキングや生理用品も質が悪く、民需がなおざりにされてきたなかでの大衆のど根性も暴力性も共に事実だ。娘を留学にやろうと思うのだけれど、というご相談にも、私は正直に、お嬢さんは自分の性を管理できますか、と返答する。きょとんとされたら、「英国人を結婚相手として連れ帰ってきたら、という覚悟もおありですか」と言い換える。まあ、運がよければ、だけど。

 しかしその一方で「お尋ねしますが、大衆とは何ですか」とまっすぐに問いかけてくるような、倹しく暮らして教育費をひねりだしてきた中流と呼ばれる層の辛抱こそ、いまの欧州の現実だということは、強く訴えておきたいのである。つまり、森嶋通夫が出征にあたって母に言われた「軍隊に行けば、どうしたって女のひとと関わりを持つこともあるだろうけれど、どんな女の人にもお母さんがいることを忘れないでね」の、軍隊、を、留学の寮生活に、女の人、を、異性、に換えて送り出すくらいの覚悟が必要なのだ。なぜ英国というだけで、お嬢さま教育の仕上げのように思いこまれているのか、まあ、そんな印象をやたら喧伝しているのはブリティッシュカウンシルばかりでもないと思うが。とにもかくにも学生の実態は、高給取りの多いロンドンで“中流”としての生活をするのも仕事のうちの日本人駐在員の暮らしとは大違いだろう。

 逃げ帰る先もなく、次から次に引越しを迫られる生活だというのに、私は自分の周りに本を積み上げていた。『赤ずきんちゃん』も、何度私と引越ししたことだろうか。当時愛読していた須賀敦子が、かつて彼女の祖母に「本ばかり読む女はろくなことにならない」と言われたそうだが、全くもって同感である。

つまり、こんなふうに自ら箱入りの世間知らずのまま過ごしてきたやつの言うことなんか、やすやすと信じないことだ。

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