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私のロシア好きを決定づけた場所

ロシア連邦を好きになったり、忘れたりした10年がありました。

その後、私のロシア好きを決定づけた場所があります。

それは、ロシア料理店 渋谷ロゴスキーです。

ある方に連れて行ってもらったのがきっかけでした。
東急プラザのレストラン街でいくつかあるお店の中で、私が見つけたのは、渋谷ロゴスキーでした。その方は若い時にデートでよく利用していたお店だったようです。私にとって本格的なロシア料理を初めて食べることになりました。ピロシキ、ボルシチ、壺焼き、ロシア紅茶などを食べました。

そして、ロシア料理だけでなく、チェブラーシカの映画のポスターを偶然見つけたのです。チェブラーシカのキャラクター自体は、2002年の時に見ていました。ただ、名前を知らなかったので、この渋谷ロゴスキーで初めてチェブラーシカという名前を知りました。

そして、この日に渋谷ロゴスキーでロシア料理を食べたことによって、私は高校3年生の時からロシア連邦が好きだったことを思い出しました。

かなり値段がいいお店なので、初めの頃はちょくちょく行けませんでした。

しかし、お店で流れていたロシア連邦の歌、ザラトエ・カリツィオの歌が好きで行けるときは行くようになりました。私がロシア連邦を好きになったロシア民謡の感じの歌が本当に好きでした。また、渋谷ロゴスキーに来るお客さんもロシア好きやロシア関係の人もいて、おもしろかったです。

さらに、渋谷ロゴスキーの創業者の息子さんと知り合いになりました。この方が、まるで近所のスーパーへ行くような感覚で、「いつロシア連邦へ行きますか?」と気軽にきいてきました。
ロシア連邦へ行くには、ロシア語が分からないとならないし、最低でもキリル文字が読めないと難しいよなあ、ビザとか手続きもめんどくさそうだなあ、テロとかがあって治安も心配だなあと思っているときに、気軽にきいてくるので、何だか簡単に行けそうな気になってきました。この後押しがあって、訪露へ近づきました。

その当時、渋谷ロゴスキーには、ロゴスキー深沢カフェという姉妹店があり、そちらの経営者の方々とも親しくさせていただき、私のロシア連邦への興味は尽きることがありませんでした。ロゴスキー深沢カフェを通じて知り合った人たちも増えました。

ロゴスキーの創業者が書いた、ロシア料理の本と自伝も購入し、家でロシア料理も作るようになりました。

2011年の震災直後は、渋谷ロゴスキーのお客さんは極端に減りました。食べながら、今日の売り上げはいくらかなと計算をし、このままではつぶれてしまうのではないかと思い、震災後に私はできるだけ通いました。また、売り上げが出るようなメニューを頼むようにしました。いつしか、私にとってとても落ち着くレストランとなっていました。

渋谷駅前の新開発で東急プラザを取り壊すことになったときは、名残惜しくて、最後の3か月は毎日のように通いました。大行列が連日できていて、私もその大行列にならびました。行列に並んでいると、ロシア連邦で並んでいるように思え、より一層楽しめました。最終日は、朝から、閉店までずっとお店にいました。

それくらいロゴスキーには思い出がいっぱいあります。銀座にオープンした日も行き、懐かしいスタッフの皆さんに会えました。銀座に行ってからも、新しい店員さんが入ると顔見知りになり、またまた私のロシア連邦への世界が広がりました。職場の研修先をロゴスキーにし、3日間研修できたこともいい思い出です。

ロゴスキーに行ってからは、毎日ロシア連邦のことを考えるようになりました。

私のロシア好きを決定づけた場所は、ロゴスキーです。


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