【展覧会】チャイコフスキー文化センター
サドーヴァエ・カリツィオ通りにあるチャイコフスキーの文化センターを紹介します。
観光で来ているときに行こうと思ったことがなく、住んでからも行こうと思ったことがなく、住んでから1年以上たったある日、「そういえば、チャイコフスキー文化センターに行ったことがなかった。」と思い出し、行ってきました。
なかなか行く気にならなかったチャイコフスキー文化センター。今回、この記事を書くために、撮ってきた写真にある自筆譜の曲名を調べることが多かったのですが、知らない作品が結構あると思いました。私は、ロシア帝国やソビエト連邦の他の作曲家が好きだから、チャイコフスキーのことを深く調べたことがなかったことに気づきました。
1872年から73年までの1年間、チャイコフスキーが住んで仕事をした家が文化センターになっています。
他の博物館に行くと、「日本人?!珍しい!」という反応をよく見ますが、チャイコフスキー文化センターは、日本人がよく訪れるようで、驚きの反応はありませんでした。
1階の入り口付近にあるチャイコフスキーの像です。
階段をのぼって、2階が展示スペースになっています。
ガラスケースに入った展示物は、番号がついていて、ガラスケースの端に、ロシア語と英語での説明書きがあります。
チャイコフスキーの家系図です。
自筆譜の展示もあります。
チャイコフスキー文化センターの近くには、チェーホフの家があり、20歳年下のチェーホフと交流していました。チャイコフスキーは、まだ若いチェーホフの才能に気づいていたようです。また、チェーホフ自身もチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」が気に入っていたようです。
交響曲第6番《悲愴》の自筆譜です。
オペラ『オルレアンの乙女』の自筆譜です。
ピアノの楽譜です。真ん中は、「ロマンス」です。
スペードの女王や交響曲第6番《悲愴》などの展示です。
ピアノ協奏曲第1番の自筆譜です。この写真は2019年12月に撮りました。
なぜ、この写真だけアップにしたのか記憶が全くなく、さらに、何の楽譜かも思い出せず、写真を拡大して、チャイコフスキーの文字を解読すること数分。この楽譜は、ハンス・フォン・ビューローに献呈したことが分かりました。
学生時代読んだ本に出てきたハンス・フォン・ビューロー。そして、記憶力が怪しい今日この頃ですが、学生時代の記憶がよみがえってきました。
ハンス・フォン・ビューローのピアノの先生は、フランツ・リストです。
フランツ・リストのピアノの先生は、カール・チェルニーです。
カール・チェルニーのピアノの先生は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンです。
フランツ・リストの娘のコジマが、ハンス・フォン・ビューローと結婚して、のちに、離婚してリヒャルト・ワーグナーと結婚したというのまで思い出しました。
そのハンス・フォン・ビューローに、チャイコフスキーがピアノ協奏曲第1番を献呈したということは、チャイコフスキーとハンス・フォン・ビューローも親交があったんだなあと、国境を越えた同時代のつながりも知ることができました。
上の楽譜はマンフレットの自筆譜で、下の楽譜は、何かの序曲の自筆譜です。
右上は「イタリア奇想曲」の自筆譜です。左下は、組曲第4番「モーツァルティアーナ」の自筆譜です。
手紙です。
チャイコフスキーと交流のあった人々です。トルストイ、オストロフスキー、チェーホフ、フェットです。
私は、チェーホフが好きなので、アップでもう1枚撮ってみました。
今、記事にしていて気づきましたが、この家にチャイコフスキーが住んだのは、1872年から1873年です。
そこで、私は、疑問がわいてきました。
チェーホフは、1860年にタガンローグというロシア帝国の南部の地で生まれて、モスクワに引っ越してきたのは、1879年なのです。現在、チャイコフスキー文化センターとチェーホフの家博物館は、たしかに目と鼻の先の近所にありますが、住んでいた時期がずれるのです。
それで、チャイコフスキーとチェーホフは、いつどこで知り合ったのかという疑問がわいてきました。
夫に訊いてみたら、夫は、「知らん。」と言い、その後、夫なりに考えたものが、「病院で知り合ったんじゃないの?」でした。
それはないと思いましたが、夫がそう考えた理由は、「チェーホフは医者だったから、チャイコフスキーが具合が悪くなって、診てもらって知り合ったかもしれない」ということでした。
もちろん、違います。
日本語訳で「チェーホフとチャイコフスキー」という本が出版されていて、そこに2人のことが詳しく書かれているようです。
私は、チェーホフが好きなのに、この本のことを全く知りませんでした。早速、帰国したら読みたい本リストに入れました。帰国したら読みたいと思いますが、次の帰国は、2026年を予定しているので、それまで待っていられないと思い、ヤンデックスで調べました。
もちろん、レーニン国立図書館にもこの本が所蔵されています。
著者のバラバノーヴィチさんは、チェーホフ博物館の学芸員として働き、研究していました。1962年に「チェーホフとチャイコフスキー」の本が出版されています。
1889年に2人が知り合い、オペラを作る計画があったそうです。
しかし、チェーホフは、サハリン島への取材の旅に出かけ、チャイコフスキーは体調が悪くなり、1893年に亡くなり、オペラが完成することはありませんでした。非常に残念ですが、チェーホフの「サハリン島」は、私の好きな作品でもあり、貴重な資料だと思うので、どちらにしても、偉大な仕事をしたと思います。
こちらのサイトに2人の出会いについて簡単に書いてあります。
こちらのホームページには、写真もあります。
左上は、オペラ『親衛隊』の楽譜です。左下は、12の小品の楽譜です。
手紙です。
チェリストのロストロポーヴィチ(左)とロストロポーヴィチの奥さんでオペラ歌手のガリーナ・ヴィシネフスカヤ(右)です。
チャイコフスキー国際コンクールのメダルです。
銅メダルに書かれている文字です。
チャイコフスキーの文化センターに、2018年5月と2019年12月の2回行きました。
初めての時は、熱心に写真を撮りましたが、2回目の時は、4枚しか写真を撮っていませんでした。
その4枚のうちの2枚が次です。
なぜか、食事のメニューの表の写真を撮りました。なぜ撮ったのかを思い出せません。
1枚目は、毎日のメニューで、2枚目は、祝日のメニューです。
しかし、メニューの内容をよく見ていくと、ロシア帝国時代になかったであろうメニューが書かれていて、これは、どこに展示されていたのか、どういう意味があったのか、さっぱり分かりません。
次に、行く機会があったら、もう一度見てみます。
チャイコフスキー文化センターのホームページはこちらからどうぞ。
地下鉄の最寄り駅は、クラスナプレスネンスカヤ駅とバリカドナヤ駅です。