展覧会「150年」が廃墟好きのタマシイを鷲掴みにした話
こんにちは、チェ・ブンブンです。
2025年は美術検定1級合格を目標にしているため、積極的に美術館や展覧会へ足を運び、感じたことを文章に書いていこうと思っている。先日、情報収集のため「美術手帖」や「美術の窓」を買ってはみたものの、やはりSNSのタイムラインに流れる美術展情報の方が行動に繋がりやすいなと感じている。
美術手帖 ウェブ版のXアカウントが、興味深い展覧会の情報を発信していた。東池袋にある取り壊しが決まった雑居ビル全6棟を使ったインスタレーション「150年」が2025年1月18日(土)〜2025年1月27日(月)に開催されるとのこと。
本展は2022年の「惑星ザムザ」で注目を集めた田中勘太郎と布施琳太郎による展覧会である。大胆に雑居ビルに壁を開けて、部屋から部屋へと来場者は渡り歩きながら、様々なアーティストの作品に触れていく構成となっているらしい。廃墟好きには堪らない企画であるのは間違いない。かつて誰かが住んでいたであろう、活動していたであろう痕跡。時間は現在進行形で進んでいるが、廃墟にはある時点までの時間がタイムカプセルのように閉じ込められている。廃墟を訪れると、時としてゾクッとさせられるが、それは自分が生きている時間の流れと別の時間の流れとの差が五感を刺激することによる反応であろう。時間の芸術である映画を愛する者にとって、必然と廃墟の空気に触れることも好むといえる。ということで初日に訪れてみた。
1.イニシエーションとしての誓約書
有楽町線・東池袋駅から徒歩5分ぐらい歩く。高架下に鋭角な建物が見える。狭い会場なのかなと思うが、この時知る由もなかった。すべてを見るのに1時間近く要するダンジョンとなっていることに。
入り口で入場料1,500円を支払う。本展覧会は後述の通り、半分取り壊し状態の建物内を巡るため危険な箇所が少なくない。そのため、年齢制限が設けられている。13歳以下は入れないのである。また、誓約書を記入する必要がある。
誓約書を記入すると、図面が渡される。会場の案内図である一方で、扉や窓のリストが緻密に書かれている。スタッフは工事現場の職員さながらヘルメットを着用しており、まるで工事現場の視察に来たかのように錯覚させられる。
「150年」では、一般的なルールの他に変わった制約が設けられている。
「入り口への引き返し禁止」
順路はなく、複雑な分岐を辿りながらゴールを目指す必要があるのだ。間違って、この入り口に戻ってきそうになると、スタッフが「こちらには行けません」と止めるのである。RPGのようである。てっきり、出入り口が一緒の会場だと思っていたら、思わぬ場所出口となっていたのだ。
2.隣家へ侵入しよう
本展は、部屋から部屋を移動する方法に「足場」が採用されている。工事現場で使用される金網と鉄パイプをむき出しの状態で組んだあの「足場」だ。それは窓の外に設置されており、鑑賞者はそれを伝って隣家へ渡る非日常を経験することとなる。隣家へ侵入すると、和室には似つかわしくないゴツいPCが置かれている。側面のカバーは開けられており、エンジニアが作業しているような形跡を感じる。ファンは周り、横のモニタにはカメラに映し出された蠟燭が投影されている。これは高見澤峻介「Screening Fire:The Past Is Alight」である。カメラでとらえた映像を生成AIで再認識し、ディスプレイに表示させているのである。火は灯ってないのに、火がそこにあるかのように振る舞うプログラム。そしてPCによる排熱で少しだけ温まる空間を通じて、仮想と実体の中で流れる時間、重ね合わせの時間に眼差しを向けているのだ。システム・エンジニアとして、このアイデアに惹きこまれるものがあった。
3.籾と砂から時間の流れを考える
しばらく進むと、タンスにテレビを仕掛け、ストップモーションアニメを再生しているブースと遭遇する。画のタッチに既視感があると思ったら、第11回恵比寿映像祭で『ケアンの首達』を上映していた副島しのぶの作品であった。彼女は今回、短編とインスタレーション2つ発表している。後者が強烈であり、何気ない日本家屋を進み、ふと左を向くと無数の籾で覆われた空間が姿を表した。アニメやハリウッド大作などにおいて、文明が滅ぶ瞬間はこのように塵の山となって消える。その途中結果を提示しているような空間がおもむろに飛び出す。田中勘太郎のコンセプトである「ぶちぬかれた壁」と共鳴するようなインスタレーションであり、空間から空間へと移った際に、時間の流れの差異によって心掴まされるようなものを感じた。
無数の「籾」があれば「砂」もある。小野まりえが手掛けた「ゆめゆめいぬいぬ」は、触覚と痕跡をテーマにした作品のようだ。床に敷き詰められた砂は、既に訪れた者たちの足跡が刻まれている。彼女はこう語る。
「壁に触れる手が違えば、空間の記憶も違う。」
壁は真っ青に染められており、そこでの一定の記憶が保存されている。しかし、そこを訪れる者たちによって少しずつ記録がアップデートされていく。そこへ足を踏み入れた鑑賞者も記録のを繋ぐ一員となり、一回性の記憶が生み出されていく。つまり、マクロで観た際の記録の側面と鑑賞者個人個人(=ミクロな視点)の異なる体験によって生まれる記憶との関係性を意識させるインスタレーションとなっているのである。
4.煙に巻かれてみよう
「ゆめゆめいぬいぬ」を堪能していると、上の階から白い煙のようなものが流れてきた。気になって階段を昇る。すると、デヴィッド・リンチやA24映画っぽい魔性の空間が広がっていた。最初は、1m先も見えないのだが、段々と目が慣れてきて、奥でチカチカ光っているディスプレイの存在、子どもが住んでいたであろう形跡を確認できる。これはHouxo Que「どうせいつかみんな忘れる」という作品だ。
↑煙が発生する瞬間をカメラは捉えた!
↑外が黒沢清映画みたいになっていた。
煙が焚かれているのは3階だけではない。工場フロアを抜けた先でも、定期的に煙が発生しているのだ。Houxo Queは「この展覧会が記憶され、記録されることを邪魔しようと思う。過去を素材としないために。(中略)今をきりというメディウムの中に沈めてしまおう」と語っている。確かに廃墟を舞台に、時間を巡る芸術を作るとすると、空間が持つ「過去」の側面に目が行きがちだが、「現在」に着目し「煙」を用いたことは興味深いものがある。ただ、それを記録してしまった自分はどうなるんだろうとは考えたくなる。
5.アルテ・ポーヴェラ的な作品を鑑賞する
3~4階にかけて宮原嵩広による作品群「Syncretic Object」が並ぶ。アスファルトやポリエステル樹脂、残置物を使った彫刻はアルテ・ポーヴェラの精神と廃墟との関連性を見出すようなものとなっている。特に3階に設置されたコンクリートの山はミケランジェロ・ピストレット「ぼろぎれのヴィーナス」を彷彿とさせるものがある。「ぼろぎれのヴィーナス」は、ぼろぎれの山とヴィーナスの彫刻を共存させることで時間と記憶との関係性を結びつけていた。一方で「Syncretic Object」では複数のオブジェと位置関係によって、人間の欲望と時間との関係性を紡ごうとしているように思える。特に4階にある紫色の沼が象徴的だ。フィクションの世界で見かけるような欲望が具現化した、どこか官能的で、危険な香りがありつつも注目せざる得ない物体が空間の中央に発生している。その横で、人間が生活していたであろう痕跡として、水が溜まり錆びついたキッチンが陰日向で踞っている。沼と水が、全く無関係な2つもオブジェクトを関連付けさせ、人間の欲望によって何か恐ろしいことが起こったかもしれないといった予感を抱かせるのである。
6.おわりに
美術展は年に数回程度足を運ぶぐらいのライトな美術ファンなのだが、展覧会「150年」は今まで行った美術展の中でトップクラスに面白かった。窓から窓へと渡り隣家へ侵入する非日常感。狭い敷地なはずなのに、道に迷い、グルグルと同じような場所を探索する中で新しい道を切り開くRPG的面白さに満ち溢れていた。
と同時に廃墟を通じて時間と記憶をどのように表現していくのかといった現代美術家の試行錯誤と慧眼さに圧倒された。もし、廃墟や現代美術が好きであれば一見の価値のある展覧会であろう。強烈な体験であったことは間違いない。
7.開催情報
▷展覧会名:150年
▷会期:2025年1月18日(土)〜2025年1月27日(月)
▷住所:東京都豊島区南池袋4-22-10
▷開館時間:12:00〜19:00 ※入場は18:00まで
▷休館日:会期中無休
▷料金:1,500円
▷注意事項:
安全面から13歳以下や足が不自由な方、車椅子の方の入場禁止。
入り口で誓約書を記入する必要あり。
写真とか動画は撮影できるが、周りに気をつけましょう。
8.追記
1月29日現在、本展覧会で「ゆめゆめいぬいぬ」を発表した小野まりえから、監督である田中勘太郎によるパワーハラスメントがあったと告発されています。折角、面白い展覧会を開催したのにこのような事態になったことを残念に思っております。
監督からの説明および、小野まりえに対する適切なヒアリングおよびケアの実施および、監督サイドからの報告があることを望みます。