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物体(名称)と空間の生産関係について

" 物体が空間を作り出すのではなく、空間が物体を作り出す "

という言葉を、東大全共闘随一の論客者であった芥正彦氏が述べていた。その文言にはその時代の扱いがあり、まさしくこれは学生運動時代の最中で模索されていた思想主義に基づく言葉なのであろうが、今日という今日は改めてロジカルな部分から離れて、現代だとか、割かし新しい物に照らし合わせて考えようと試みることにする。

机というものは形態から即されてそう呼ばれ、教場に配置されていれば学問のツールとして扱われることになりうるけれども、学生運動の渦中ではそれが武器となり、またバリケードともなっていたということが事実としてある。机という物体は変わらないのだけれども、置かれた空間によってどのような用途にも化けられるというのがあると考えると、初手で示した論は大いに正しい。

こと愛情という媒体に拠れば、「好きだから相手に近づいている」ということが事実として囚われがちであるのだが、冷静に考えてみればこれは逆で、近づいている自分(空間)を俯瞰あるいは諦観した際に、好きである(物体名称)という事実に初めて気がつくのではないだろうかと私は思う。

相手に割かし近づいている状況が完成されると、決まってでは無いと思うが、「交際」という物体名称を形成しようとする。ここで名前が付されて居ないと不安に駆られてしまい、どちらか一方からの駆け引きが始まる。勿論、交際を求めてから空間を作り得る事例も無いとは言いきれないけれど、凡そは空間から物体が形成されていることが多いのであるとしみじみ思うのである。

最も交際関係だとか、愛情というものは物体と切り離されるものであって、そこに形は無いのであるけれども、私達は言葉を物体と取って心の中に押し込むことによって、心身の安寧を得ていることは間違いない。

こじつけに過ぎない、と言われればそれまでなのかもしれないけれど。

これを咀嚼すれば、物体名称の無いものは空間が無いことと同じことであり、潜在的に人間はその不安を感じうるために、今置かれた空間に見合った名前を求めたりまた名前を付けることによって そこに " 在る " ことを意識している。
つい最近まで、全てに名前を付けようと必死になっている人に対して理解を示すことが出来なかった。その根拠としては固定名称があることによって空間も拘束されると思っていたからであるが、よく良く考えれば人間関係は全て明文化されているような単一的なものでは無いので、空間の設定は自由であるものなのだ。オーディエンスからの否定的なアプローチがあるにせよ、それは必ずしも正しいものではなく、同じ名称から発現する空間形成も人それぞれであって良い。

私達は物体を位置付けることをスタートとして空間を拘束するのではなく、空間をスタートとして物体を確立しなければならない。


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