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文章修行の進捗報告① ──やなやつもいいやつも金言を与えてくる


一年ほど前、校正をしてくれた同僚に「叙情的な表現ができてへん!」と指摘された。

よく考えたら、叙情的な表現が必要な職種でも場面でもなかったんだが、そのときはむっ。と思った。

仕事では、事実を過不足なく伝えることが求められるくらいなんだが、固い文章を書いてしまっている自覚はあった。

仕事でも文章を書く必要があるし、趣味としても文章系に興味があったため、どうにかならないかね。という気持ちになってきた。

それで、文章修行のためにとりあえずnoteをはじめた。

なにかに習熟するためには、とにかく場数をこなすべきだという信条があるため、まず10本ほど記事を書いた。

書きたいことがあるとき文章を書きはじめるハードルが低くなり、たいへん良かったのだが、文章表現が上達する気配は別にない。

10本でなにがわかるんだよという説もある。

しかし、問題点はけっこうわかった。

今後意識すべき基本的な問題点を、自分のためにまとめておこうと思う。



■ながら書きはしない方がよい

そんなのは当たり前だろうと思う人は、たいへん幸せな人だ。

一人暮らしのわたしは、寂しさからか、あらゆる映像にめちゃくちゃ依存している。

大学生のときも一人暮らしだったけど、そのときは、何かをつけっばなしなんか考えられなかった。大学行ったら友達に会えるし、寂しくなかった。

縁もゆかりもない地方に一人暮らししている社会人の今の方が、よほど寂しい。

寂しさ自慢はよいとして、とにかくわたしは常にYoutubeだのアマプラだのFANYの配信だのを見ている。

文章を書くぞ。というときも、FireTVでなんらかの映像を再生していることがザラにある。

集中すると、映像も音も外側にいくから関係ないといえば関係ないのだが、どう考えても、テレビは消した方がいい。

今後ながら見の快感に抗えるか、不明であるが、できるだけ避けたい。

配信終了が間近く迫っているときを除いて。


■メモは単語で

書くときに本当に助かるので、私にはばりばりメモを取ってほしい。

ただし、どうも文章の形ではとらないほうがよい気がする。

単語のみをメモして出来事を思い出せるようにだけしておいて、文章の形にするのは、書く段階になってからがよい。

わたしはどうも文章の形でメモを取る傾向にあるのだが、それをそのまま切り貼りして、あれっなんか馴染まないな。と思う。けど、ラクだからそれで済ませることが多い。

馴染むように整える作業が面倒になってしまうんだろうな。

だから、そもそも単語でメモした方がよいのではないかと気づいた。

ずぼらな自分を変える努力より、ぬるっとサボらせないような仕組みづくりが大事なのかもしれない。

■ーから文章を組み立てる

これも、「メモを文章の形でとらない」に繋がるのだが、PCの前に座って、写真を見たり、地図を見たりして、楽しかったなあと思い出しながらちゃんと一から考えて書く文章の方が、読み返したときにスムーズに頭に入ってくる。

淡々としていても、一連の流れになっているというか。

逆に、文章の形で残したメモやすでにしたツイートを切り貼りすると、ひとつひとつは刺激的だとしても、文章がぶつ切りになっていて、読みにくいことこの上ない。

全体の流れ>細部だと思い知った。


■書く前に、こねくり回す時間をとる

正直、文章にする前に勝負ははじまっているというか、決まっている。

「一から文章を組み立てる」に反しているようで、そんなことないのだ。

思想や書きたいことを、頭の中でどれだけこねくり回せているか。

書く前にこれらをちゃんとこねくり回せていたら、すっと書ける。

このこねくり回し時間を、わたしはスマホ依存により積極的に潰している。

夜に散歩している時間、家事をしている時間が絶好のこねくり回し時間なはずなのに、イヤホンでつねにラジオをきいている。

ここを上手にコントロールできるようになれたら、だいぶ変わると思う。


■説明が下手なのを自覚する

文章表現以前の問題で、そもそも私は説明が下手である。

数年前に立川であった二週間ほどの研修に参加したことがある。

講師といい、近場の大学院生が大半を占める受講者といい、東京中心の選民思考が過ぎて、今思うと、「揃いも揃って不愉快な連中ばかり」だった。

そこで会った、関東地方のどこがダサくてどこがイケているかということを熱弁してくるこれまた選民思考に染まった受講者と、映画の話になった。

その人は、かぐや姫の物語とレ・ミゼラブルが好きらしく、魅力を語ってくれたのだが、どちらも中心となる筋をちゃんと伝えてくれて、非常にわかりやすかった。

私の場合は、ここが好きなんだ!という細部が先行して、物語の前提や中心の筋を伝えられていなかった。

それで愕然として、どういうストーリーなのかわかりやすかった、そうか、そうやって話すべきなのか。と言ったら、なにか上から目線の嫌なことを言われ、なんじゃこのxxと思った覚えがある。

ム力ついて、「かぐや姫の物語」は見てない。レミゼは他の人にすすめられて見た。アンハサウェイ。

非常に苦い記憶ではあるのだが、自分の説明は下手なのだと自覚する機会になった。

思えば、友達に職場の愚痴を言うときも、アニメや小説の好きなところを語るときも、前提をスッと説明できていない。

パッと必要な要素を見抜いて、的確に説明できるようになったらいいんだろうな。


おわりに

他にも多々あるのだが、とりあえず今言語化できる問題点は上記のとおり。

そういえば、最近、文章が書けなくて、同僚(叙情的な表現が〜って言ってきたのと同じ人)に泣きついたら、「煮込みかたが足りてへんのちゃーう?」と言われた。

至言である。やっばり煮込めてないと文章は書けない。煮込みとは、素材となる情報を集めて自分の中に取り込んだり、こねくり回して考えたりすることを指す。

あと、今回書いてて思い出したけと、学部生時代、担当教員に「てにをはがなっていない」と指摘されたことがある。

未だにてにをはでワタワタしているので、これも冴えた指摘だった。そこからかよ、と恥ずかしいが。その後、本田勝一の『日本語の作文技術』を貸してくれた記憶もある。

この担当教員には、卒論だかなんだかで、うまく書けないんです一って泣きついたら(こいついつも泣きついてんな)、「でも、書くの楽しいやろ?」と言われたこともある。そのときはどういう……?とよくわかっていなかったが、書くの楽しいと今は思う。これも至言である。

まあぼちぼちやっていくか。

ひまだし。




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