【両国でまちあるき】③両国駅周辺(後編)関東大震災100年後を歩く
両国駅付近を歩いています。国技館があり、隅田川があり、昔のターミナル駅があり、とても見どころの多い街です。その中でも、もう一つのポイントと言える場所が、この横網町公園です。前回はここにたどり着くまでの駅周辺を歩きました。(前回の記事はこちら)
今回は、両国駅の近くにある、「横網町公園」と、その中にある、「東京都慰霊堂」「東京都復興記念館」などを訪れた模様をお伝えします。
■横網町公園とは?
元々、この場所には、「被服本廠」という陸軍の施設がありました。それが1919年の時点で赤羽に移転し、この地は東京市や逓信省に払い下げられ、空地になっていました。そこに1923年に関東大震災が発生し、周辺家屋で大火が発生したので、周辺の住民がこの地に避難してきました。そこに発生した「火災旋風」により、一度に3万8千人もの命が奪われる悲劇が起こった場所です。震災後ここは「震災記念堂」として整備されましたが、その後太平洋戦争の際の東京大空襲で再び焼け野原に。その復興の際に、戦災で被災した方も含めて祀る、「東京都慰霊堂」として再興したもので、それがある場所が、「東京都立横網町公園」なのです。
■火災旋風って、どんなもの?
関東大震災の犠牲者の多くが、大火災による焼死者だった、と言う話を聞いた方も多いと思いますが、そこで発生した「火災旋風」というものが何かを知っている方は実はあまり多くないのかもしれません。それを科学的にアプローチした研究の一つに、下記の論文があります。
この論文によると、被服廠跡付近では、複数の場所から大火が発生し、燃えていない被服廠跡に4万人くらいの人が避難していました。そこに発生したのが、大きな竜巻。地面を這うように炎の竜巻が人々を襲い、一瞬にして約3万8千人もの命を奪いました。竜巻の風速は100km/hにも達していたようで、遠く市川市まで14kmも飛ばされた焼死体があったそうです。防災ガイドあんどうりすさんのページに、火災旋風の絵が紹介されています。
火災旋風は、火災による大気の変動により、周辺の風の状態などの条件が揃った際に、積乱雲のようなものが発生し、旋風が発生するもののようです。先ほどの論文にも、関東大震災の際に発生した積乱雲が紹介されています。
■東京都慰霊堂を歩く
では、東京都慰霊堂を紹介します。
■敷地内にある様々な記念碑
この公園の周りに、色んな記念碑があるので、こちらも紹介します。
■復興記念館へ
この敷地内にある、復興記念館。こちらも伊東忠太さん設計で作られた建物です。
ここには、昭和5年に開催されたという、復興博覧会の展示物の模型等が展示されています。戦前に作られた模型ですが、とても面白いです。
いやー、建物も素晴らしいですが、中の展示物もすごい。震災復興という事業を昔から市民に説明する展示をしていたのですね。思いもよらない土木構造物の模型展示を見ることができました。
■両国駅へ戻る
両国駅に戻る途中に、相撲部屋を見つけたのでちょこっと寄り道。
最近は、Twitterもされているようですね。部屋の北勝富士さんが、優勝争い中でいよいよ千秋楽。健闘をお祈りしたいと思います。
ここは、総武線の高架橋です。両国開業時から高架線だったのですが、今の構造物は総武快速線が開業し、複々線化された昭和40年代に作り替えられたものだそうです。
■終わりに
横網公園のある場所にかつてあった、被服本廠跡は、関東大震災の大火により生じた火災旋風の被害で、数万人が一度に命を落とした場所です。それを契機に、東京都慰霊堂が建ち、復興記念館ができました。震災とその被害はやはり忘れてはいけなくて、何らかの形でバトンを貰わないといけないのだろうということを、今回の訪問でも思い知らされました。
次回は、両国駅から亀戸まで電車で移動して東武亀戸線に乗り、そこから東京スカイツリー駅を目指したいと思います。
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