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アダルトなチルドレンと愛すべきふわふわ

皆さんは、ぬいぐるみは好きですか?
近頃はいろんな子がいて、大きい子から小さい子、ふわふわな子、もちもちの子、夏でも抱き着ける冷たいボディの子。(なんて素敵!)
姿かたちも、クマやウサギはもちろん、犬に猫、おにぎりやかまぼこ、テトラポットまで多種多様。ぬいぐるみのサラダボウルです。
かくいうわたしもぬいぐるみが好きで、自宅にあるぬいぐるみの家(というか大きめのバスケット)にはたくさんの子たちが住んでいます。
最近は買い集めるだけでは飽き足らず、好みの子を自作するようにまで至りました。冒頭の写真の子達は、わたしが製作した子のほんの一部です。
子供っぽい趣味だけど、すっごく楽しい。

ところで「子供っぽい」という単語について、どういったイメージを持っているでしょうか?
大人に対して使うそれは、成長しきれていない、周囲の人間と比べて精神や行動が未熟である、といったネガティブなイメージを抱く人が圧倒的多数のように感じます。
一方で、「子供の心を持っている」とすればどうでしょう。
自由奔放で遊び心があり、知的好奇心が旺盛、このように非常にポジティブな印象を持たれることが多いようです。
「子供っぽい」と「子供の心を持っている」。
同じような単語を使っていても、子供という語のあとになにが続くのかで相手に与える印象は大きく変化します。
わたしたちのようなぬいぐるみを友達や話し相手として大切にしている人間に対しての一般人的反応は、
「いい歳してそんなものを。」や、「まだあんなの持ってるの?」といったもので、あまりいい印象を持っていないように感じます。
子供っぽいわたしたちと違い、普通で一般的な正常者は、大人になるにつれてぬいぐるみから離れ、年相応に生きることを意識して日々を過ごすことを是とします。
もちろんそれは自然なことであって、あちらとこちらで上手く棲み分けができればいいだけのお話です。
しかし、そのあちら側の多いことは事実です。
本当はそんな難しいことは考えずに、好きな服を着て好きなことを好きなだけやっていたいけど、大きな潮流に飲まれてしまってそうせざるを得なくなっている人も多いように感じます。仕方のない事だけれど。
世間の目、というビッグウェーブを上手に乗りこなせなかったアダルトなチルドレンは、かろうじて浮かぶためのビート板としてぬいぐるみが必要なのだということを、伝えたいのです。

アダルトチルドレンというのは、単純に「大人になりきれていない大人」という意味ではなく、1960~70年代のカナダで始まった概念であり、日本では1980~90年代辺りから注目されだした比較的新しい言葉です。
親がアルコール依存症であったり、親からの虐待、家族間の不仲、過度の感情抑圧などからくる、深いトラウマを抱えて育った人(大人)を指します。
これを区別が必要な場合、ACA(アルコール依存者のアダルトチルドレン)やACOD(機能不全家族のアダルトチルドレン)と呼称します。
現代日本では上記の「機能不全家族で育った人」よりもさらに拡大解釈され、自分のアイデンティティの不安定さや、いわゆる「生きにくさ」を感じる人、PTSD(心的外傷ストレス性障害)に悩む人を指すようになっていっています。
すごい難しいね。
要は、子供のころに家庭内のトラウマによって傷ついて、大人になった人たちのこと、ってわけです。
すごい分かりやすいね。
こうした過去のトラウマティックな経験により、家庭が子供にとって「あるがままでいい」という安心感のある居場所ではなくなってしまい、親が子供に対して過剰なまでに期待をしたり、家庭を支えるために親の愚痴を聞いたり、親の代わりに兄弟姉妹の面倒をみたりと、よい子として振る舞う。
「よい子ではないわたしは捨てられてしまうのでは?」という不安にかられてしまい、上記のような行動パターンを構築し自分の感情を素直に表現できなくなっていくのです。

もう少し別の角度から見ていくと、乳幼児期における子供のトラウマに関して精神的問題を抱えている子供の一部は、実の親から性的・身体的な暴力といった「現実の暴力」を受けている可能性が極めて高いとシグムント・フロイト(S.Freud, 1856-1939)は語り、その結果として、ヒステリー(神経症)や統合失調症を引き起こすという心的外傷仮説を立てました。(この仮説は当時の上流階級者からものすごくバッシングを受けて、一部棄却しているようです。あのフロイト先生でも、アンチには勝てなかったみたいね。発信していくことの難しさを感じるわ・・・)
それくらい、小さい頃に受けた心の傷は、大きく、深く抉られており、一朝一夕ではどうにもならない呪いなのです。
そんな重傷にそっと寄り添い、よき話し相手として大切にされてきた友達こそがぬいぐるみなのです。

子供は1歳前後になると、親から自力で離れて移動ができるようになります。
しかし、自分で移動をしていくにも関わらず、親元を1人で離れる不安からか、ぬいぐるみや人形に対して愛着を示しやすい時期なのも、この頃の特徴と言われています。
乳幼児期の子供は言語能力にも乏しく、親や周りの人間に対して気をつかうことをしません。(当たり前といえば、そうなのですが。)
つまり、親の次に愛着を示しかつ生きているように見えているぬいぐるみに対して、ほぼ間違いなく素の自分としてぬいぐるみに接しているということになります。
そして、わたしたち子供の心を持った大人も、例外ではないと考えています。

歴史をさかのぼれば、古代エジプトからぬいぐるみのようなものは存在していて、使用用途としては今のように愛玩目的ではなく、ありていに言えば誰かに呪いをかけるために用いられていたようです。日本でも丑の刻参りの藁人形、なんかが有名ですね。
そういった呪術にぬいぐるみが使用されてきたのも、それが単なるモノではなく、魂を持った存在であると考えているからこそ、呪物としての体を成していたのだと思います。

このように、うれしいときや悲しいとき、誰かのことが憎いときだって、わたしたちのすぐ傍にはぬいぐるみたちがいたのです。
自分で自分の気持ちを整理するために、ぬいぐるみに話しかける。ひどく落ち込んでしまったときには抱きしめる。それは決して恥ずかしいことではないし、他人から否定されたり卑下されるものではないということ。ぬいぐるみと一緒にいることは安らぎであり、鬱屈とした日々を0.5生懸命だけがんばるための一つの光で、希望になりえるのです。

ぬいぐるみは、動かないし喋りません。
中には綿かなにかがつまっていて、ボタンやプラスチックでできた目は虚空を見つめ、ただ黙ってそこに座っています。
そこに在る。わたしたちと彼らの関係は、それでいいのです。
世界に絶望して、わたしなんかダメなんじゃないかって、それでも生きていかなければならない全てのアダルトなチルドレンが、愛し愛されるふわふわに出会えることを願って。

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