散歩考再々
どうして時間がないのだろう。およそ1年半前、デンマークのフォルケホイスコーレ留学から帰ってきてしばらくの間は、コロナのこともあり家で過ごす時間も多かった。そのせいか、時間に追われているという感覚はなかった。そして時間が余っているという感覚もなかった。つまり必要かつ十分にあったと言える。ところが日本の生活に戻るにつれてなんとなく気忙しくなり、時間が足りない感覚が、というより、時間を丁寧にすごす気持ちの余裕がなくなってきたのだ。思えば、これはデンマークに行く前にも常に感じていた感覚であった。
気持ちの余裕がないということに気づくのは私には難しい。そうでない状態を思い起こせないからだ。そのような時は結果を急いだり、思い込みで動いたり、マイナスの面ばかりを無意識に探そうとしたりして、それがさらに気力の無駄遣いになり悪循環に陥ってしまう。そして疲れる。これには本当に参ってしまう。おそらく長年の心のクセになっているのだろう。デンマークでは強制的にその環境から離れさせられた。これは、結果がわからない、思い込みが通用しない、何がプラスかマイナスかが判断できないという環境だったということだ。そのおかげで久しく忘れていた時間と心のバランスの取れた状態になれたのかも知れない。まぁかなりの荒療治ではある。
今はこのデンマーク滞在の経験のおかげで少なくとも生活の中に気持ちの余裕があるかないかはわかるようになった。わかるようにはなったがさて、どうすれば良いのか。本であったりネットであったり、さまざま言われていることではある。ワークライフバランスとか、ゆとり、とか、最近知った言葉では「余白」である。なにかいつも気持ちが急かされて浮き足立っているようなときに、それを鎮めて足を再び地面につける、そういったことを意味するのかもしれない。しかし生活そのものを変えてゆく前に、今のこの瞬間をなんとかしたいという思いがある。デンマークのような荒療治は日本ではできない。私がそのイメージで強く思い出すのは、デンマークでよく散歩に出かけたことだ。10ヶ月の滞在中に1200kmほど歩いた計算だが、美しく静かな森林の中を黙々と歩くのはまさに足を地面につけて自分のペースで歩くという、それを五感で味わう経験だった。信号待ちがあったり雑踏のようにざわざわしていて自分のペースを守って歩くのが難しいところではなく、静かでただただ自分の足取りと呼吸が感じられるだけの場所を歩く、それが気持ちを整えるのに大いに役立ったように思う。なるほど、散歩の効用は多々言われるが、これでまた一つ納得がいった気がする。