🌸ある日の自分観察日記⑨(干潟エッセイ) 蟹の恋路を邪魔するヤツは・・・
それは、今から11年前。
残暑厳しい、8月某日の昼下がり。
その日、私は母とともに干潟での採集仕事に出かけていた(私の実家は貝類採集・販売を4世代にわたって継続してきた漁師家系)。
しかし、連日続いた猛暑の影響で海水温も高止まりし、潮が変色していた。
赤潮だ。
この状態だと、いつもの採集仕事に力を入れても 意味がない。
せっかく採集しても、販売までの時間に採った貝たちが死滅するようなコンディションであれば、全ては「水の泡」ならぬ、「海水の泡」となってしまうからだ。
さてどうしたものかと、しばし母と二人、堤防の上から磯を眺めた後、さらに潮の状態をよく見るため、地牡蠣がゴロゴロと横たわる転石干潟へと降りていった。
干潟に降りて早々、思いがけぬ生き物が目に飛びこんできた。
タイワンガザミの雌、それもしっかり成長した大人の個体だ。
波打ち際で、薄っすら砂をかぶって気配を消している。
私がそんなふうに、隠れている生物をいとも簡単に見つけてしまうのは、漁師家系の母方の実家で、幼少期から干潟遊びに慣れ親しんできたからだ(だからといって無駄な殺生はしない)。
そのタイワンガザミの姿を見てピンときた。
普段は沖合のほうに棲息しているタイワンガザミやイシガニ(タイワンガザミと同じワタリガニ科で美味)たち。
これらの蟹が、赤潮で酸欠状態になり、潮間帯エリアまで上がってきているのだと。
それに気づいた私は、潮の深いところに目を落とす。
やはり、いる。
数えきれないぐらい多くの蟹が、石陰に身を潜めたり、干潟上部に向かって泳いできている姿が確認できた。
赤潮が長引けばそのまま死にゆく可能性が高い。
そこで母と相談し、急遽予定変更でその日は海水に浸りながらカニ漁を行うことにした(私たちの採集仕事・フィールド調査地域では、本種への漁業権は設定されていないため、誰でも採捕可能)。
ただし、巨大な蟹をしとめるための専用道具など、私たち親子は持ち合わせていない。
蟹専業の漁師たちは、当然のことながら数多く捕まえるため、旬の時期、カゴを潮の中に仕掛けたり、網を張ったりする。
しかし私たちは多く獲る必要はないし、蟹を商品として扱ってはいないから、そのような漁は行わない。
あくまで家族数人、自宅で1~2回調理して食べる分だけ獲れたらそれでいい。
もし多めに獲れたなら、お世話になっているご近所さんに軽くお裾分けできればいいかも、というレベル。
しかしながら、成体で大人の掌サイズ、場合によっては顔面ぐらいの大きさまで育つタイワンガザミやイシガニを、漁の素人が専用道具なしに捕まえるのはとても難しい。
では、私や母はどうやって捕まえるのか。
それは、貝堀り用の熊手、もしくは牡蠣打ち用のトンカチみたいな道具を使って蟹の甲羅を押さえながら捕まえる、という手法だ。
これはけして、ほかの人には真似してほしくない。
ケガをするどころか、間違うと蟹の強力なハサミに指を持っていかれるぐらいの危険性があるからだ。
私はこの採捕手法(?)に慣れていて、けして指を挟まれずに済む方向から狙いに行くことができるから、この手法を採用している。
だから今日まで私の指は無事で、この記事を書くためにパソコンキーボードを打つこともできている(たまたまラッキーだっただけかもしれないが)。
さて、そんなオリジナルの蟹漁法で、私や母はその日、大きなイシガニやタイワンガザミを人生史上、最も数多く捕まえることができた。
親戚にお裾分けし、ご近所さんにも少し配り、後日、仕事の大事な取引先の方にも、ご笑味いただけた(私の実家周辺地域のこれらの蟹は、特別美味なことで知られている)。
それはよかった、めでたし、めでたし、である。
だが、しかし…………
私はその日、後悔してもしきれない過ちを犯してしまった。
潮だまりの石の下に仲良く潜んでいた、タイワンガザミのカップルの恋を引き裂いてしまったのだ……(涙)
そのカップルの背後(蟹の甲羅のふんどしと呼ばれる部位)から近づき、熊手で甲羅を押さえて捕まえた時、私の目には巨大な雄のタイワンガザミしか見えていなかった。
しかし、潮の中に熊手を下ろしてその個体を押さえた瞬間、なにか様子がおかしいと気づいた。
そこで採捕の手を緩め、潮の中の状況をもう一度よく確認した。
そうしたら、その雄蟹の下にもう一匹、大きな雌が潜んでいたのだ。
つまり、この2匹は赤潮で生命の危険が迫る中、最後になるかもしれないデートを楽しんでいたのだ(オブラートに包んでこう記す)。
本当なら、その二匹は揃って逃がしてやるべきだった。
少なくとも、そう判断すれば私は後悔せずに済んだ。
しかし、「海の仕事に就く者」としてはあまりに未熟すぎた当時の私は、じっとしていて捕まえやすい、雌蟹のほうを捕まえ、用意していた網(貝用)に入れてしまった。
◆ ◆ ◆
怒った雄のタイワンガザミはどうしたか。
サッサとその場を離れ、逃げるかと思いきや、愛しい彼女を欲深い人間に奪われた怒りを露わにし、私に向かって目いっぱいハサミを広げ、威嚇・抗議のポーズをとってきた。
その姿に、私は罪深いことをしたと感じ、項垂れた。
もちろん、蟹に感情というものがあるかどうかはわからないし、知能レベルも解らない。
しかし私に向かって両方のハサミを振り上げ、微動だにせず威嚇ポーズを決めるその姿は、大事な恋人を奪われたことへの悲しみ、憤りを体現している様子にしか見えず、強い罪悪感が襲ってきたのだ。
そして、私は次の言葉を自分にぶつけた。
「蟹の恋路を邪魔するヤツは、豆腐の角に頭をぶつけて死んじまえ」
もちろんこれは、めちゃくちゃな造語である。
(「人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んじまえ」という都々逸と、「豆腐の角に頭をぶつけて……」がドッキング)
ろくでもない判断をした自分を罵らずにはいられなくなった瞬間、とっさにこんな言葉が浮かんだのだ。
さらにいたたまれなくなり、少し離れた場所で蟹を追いかけていた母に、声をかけた。
「今日、夕方買い物に出かけるなら、ついでにお豆腐買ってきて!」。
私がそのようなお願いをする理由を知らない母は、呑気にこう答えた。
「なに作るの? 豆腐なら安いから何丁でも買ってくるよ!」
私。
「じゃあ、気が済むまで頭ぶつけられるぐらいの量、買ってきて!」
そこで、母は吹き出しながら尋ねてきた。
「どういうこと? なんかあったの?」
その後、母にいきさつを話し、家に帰ってから父にも懺悔話をし、夕食には冷奴が食卓に並んだ(切って薬味をまぶしただけだが、一応私が準備した)。
そして、「角に頭をぶつけるような気持ちで」その冷奴を食べた。
蟹は母が茹でた。
しかし、2つのハサミを広げ、愛する彼女を奪われたことに抗議する雄蟹の姿を思い出すと、その夜、蟹は喉を通らなかった。
これからもけして忘れることのない、11年前の懺悔の記憶である。
本日の記事は以上です。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。