天気を失った私は、TOMORROW X TOGETHERと賛歌を歌う
この記事に私のTwitterからリンクを踏んでたどり着いた人には目にしたかもしれないが、私は先日病みツイートをした。
もともと小さいころからフィロソファー系の思考回路を持っていて、「そんなこと考えてたら人生やっていけないぜ✨」みたいなことさえ、無意識に深く考え込んでは、様々なジレンマに思い悩まされてきた。
病みツイートをする上で、上記した特性に加えて外部の刺激に敏感なことも影響したのだと思う。新学期でキャンパスにあふれるたくさんの知ってたり、知らなかったりする人たち。彼らの服装、話し声。オンライン授業では気にならなかった、他の生徒がメモを取るときの筆音やキーボードをたたく音。
ありきたりな表現だが、それらすべてが情報となって体の中に濁流となって流れ込んでくる感じがした。
そして精神衛生状態を良くしておくために致命的なのは、自分の感情をコントロールするのが苦手なこと。
こんな調子で、いわゆる普通の”日常生活”を送ろうとしただけで疲れてしまうため、その疲れが発散できずにたまりにたまってしまうと例の病みツイートをした日のように精神が沼の底まで落っこちてしまう。
さすがにこの状態を何年か繰り返していると、「あ、きたな」と思えるようになるので自分なりの健全な対処はしてこれたのだが、その日は今までにないくらいひどかった。
震えて涙が止まらなくて、立っていられなくなった。頭の中で、「キッチンに包丁あるな」と一瞬でも思ってしまった自分が恐ろしかった。
それでも、なんとか持ちこたえた。病んだのはオール明けの早朝だったのだが、その日は大切な友達の誕生日だったし、プレゼントも用意していた。いつも仲良くしてくれている子だから、なんとしても直接会ってプレゼントを渡さなければならなかった。
その子はプレゼントをすごく喜んでくれて、なんとなく、その子の笑顔を見てたら気分が落ち着いた。やはり持つべきものは友である。
そして忘れてはいけない、TOMORROW X TOGETHERのコンセプトフォトの公開を控えていた。よくある話として、オタクはいくら人生に絶望したとしても、○○が公開されるからその日までは絶対に死ねないと思いなおし、なんとか日常生活に戻ることができるなんて言われているが、まさかこれを自分が体験するとは思わなかった。
想像通り、コンセプトフォトが素晴らしすぎて、案外と病みツイートをした翌日にはケロッとしていた。
こいうことがよくある。
でも、絶対に自分だけは自分自身に対して「なあんだ、そんなことで悩んでたのか。たいしたことないじゃん」なんて言いたくない。
いくら現状は回復したとはいえ、悩みの渦中にいる自分はもがき苦しみ、あらゆる苦痛に耐えていた。ある意味一生懸命生きていたといえる過去の自分にそんな言葉をかけるなんて、あまりにその時の自分が報われない。
たった今「自分だけは」といったが、私は家族に私の特性を理解されていない(と思っている)。ゆえに、痛いところをつく正論をよくぶつけられる。
私自身の苦しみや悩みを雨に例えるなら、こんな感じ。
私は、突然の雨に傘も差せずびしょ濡れ。体もどんどん冷たくなっていく。
親の声がする。けれど、「ああ、助かった。雨に濡れて寒いの、助けて。」と言っても彼らは私に傘をさしてはくれない。
彼らは、傘をさしてレインコートも着て完全防備なのに。いや、もはや家の中から声をかけているのかもしれない。屋根がある、あたたかい家の中から。
そして私にこんな風に声をかける。
「自分で歩けるならいいじゃん。あっちを見てみなよ。風も吹いて、雷まで鳴ってるんだよ。こんな雨ならまだいい方だと思いな。」
そして、私の体温も確かめずに去っていってしまう。
わかっている。私よりも大変な人がいることも、この雨がにわか雨のように突然降りだしてそのうちに止んでしまうことも。全部わかっている…。
そのうち晴れるからと言われても、今降ってる雨がもうすでに耐えられないんだよ。
いつもそうだった。特にパンデミック中はつらかった。
修学旅行が中止になってしまって悲しみを吐露したときも、「でも、2つ学年が下の子は留学(私の学校は留学制度があった)に行けなくなっちゃうんだよ?そっちの方がかわいそうだよね」と言うだけで、こちらの気持ちには少しも共感してもらえなかった。
大変なのは自分だけじゃない。自分よりもっと大変な人がいる。
こんな言葉を自らを奮い立たせるために自分自身に言うならわかる。でも、助けを、共感を求めてもうすでにぼろぼろになった人にかける言葉ではないと思う。
愚かな私は何度も親に期待し、苦しみや愚痴をこぼした。しかしいつも返ってくる答えは、
「そのくらいなら大丈夫だよ。どうせそのうち元気になるんでしょ」
絶望した。そして、もうこういうことに関しては親に期待しなくなった。愚痴や悩みももう言わないようにしようと決めた。だから彼らは、私が夜中に泣いてることも知らないし、ましてや、死にたいとすら思って包丁の位置を確認したり、高いところから下を覗いてみたりしたことももちろん知らない。
そんなとき、TOMORROW X TOGETHERの曲と出会った。
大げさだと思われるかもしれないが、彼らとの出会いは一種の救いだった。
彼らの曲はいつも「君と僕」や「僕たち」のことを歌っていた。
彼らの歌は、雨で濡れている私に傘をさすわけでもない。家に入れてくれるわけでもなかった。
だけれど、彼らは私と一緒に雨に濡れてくれているような気がしたのだ。
一緒に雨に濡れるということは、とても難しいことだと思う。自分を犠牲にして、決してポジティブではない気持ちを共有する。
彼らの曲はよく、Z世代の賛歌だといわれるが、本当にその通りだと思う。上から目線で救いの手を差し出すこともなく、無責任に大丈夫だと言うこともしない。
賛歌とは神様が歌う曲ではない。救い主が歌うものではない。
そう、救われる私たちが歌うことができるものなのだ。
曲を発表する歌手だけが歌うことができるというわけでなく、ファンである私たちも同じ立場で「一緒に」歌うことができる。だから「賛歌」なのだ。
個人的に、トゥバの曲の中で「賛歌」の極みだと思うのは、「天気を失ってしまった(We Lost The Summer)」だ。
サビで彼らは淡々と、そして悲しげにWe lost the summer(夏を失ってしまった)と歌っている。曲中に夏を(天気を)失ってしまった後の解決策は全く示されていない。
なぜなら、失ってしまった私たちがほしいのは現実的な答えではなく、感情の共有だから。
いわゆる、
この状態を望んでいるのだ。
トゥバの曲はそのあたたかさを十分に与えてくれた。他の人にも分け与えたいと思えるほどに。
このあたたかさは、とても安心できるあたたかさだ。
彼らがいつも言う言葉
「明日も一緒にいよう」
今 、たった今その瞬間の感情を共有してくれる彼らとなら、一緒に明日を迎えようと思える。そして、ずっと一緒にいたいと思わせてくれる。たとえ、永遠なんてものが存在しなくても。
本当に、心の底からトゥバに出会って良かった。
あなたたちと、そして私みたいにあなたたちを愛しているMOAの皆さんと、賛歌を歌うことができて本当に良かった。ありがとう。
これから彼らがどのような道を歩むかは、わからない。
やっぱりファンとしては、彼らが幸せを感じられるような道を歩んでほしいと思う。
でも、どれだけ私たちが幸せになってねと言っても、彼らはきっと
「一緒に幸せになろう」
って、手を差し出してくれるんだと思う。
だから、みんなで一緒に幸せになろう。
ずっと一緒にいよう。
はかない、もろい願いだということは知っている。
だけれど、雨が降る今だけは、あと少しだけ、この安心できる場所にいさせてほしいと思う。