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短編小説 「手が触れて、腑に落ちる」

※以前に趣味で執筆していた短編小説です。
元々はお題にそった短編小説なので、原題は「手を繋ごう」という作品になります。

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人と手を繋げずに生きてゆくのだと思っていた。あの夜までは。
熱を通り過ぎてひんやりした春の夜。七分咲きの夜桜。
私は多分、忘れることはないと思う。



【 手が触れて、腑に落ちる  】



自分でもいつから潔癖症になったのか分からないほどに、気がついた時から素手で何かに触れるのを躊躇っていた。

小さい頃はそれが分かってもらえなくて、自分の中でたくさんのわだかまりや悲しさがあった。

幸い病的なまでにすべてに触れられないというわけではなかったけれど、小学校の土いじりや体育の鉄棒も、中学校での掃除や図書館での本選びも、高校での電車通学のつり革も内心では嫌だ嫌だと思いながら過ごしてきた。

もちろん除菌シートや除菌ジェル、電車のつり革は薄手の手袋でガードすれば済むし、それらはまるで自分のお守りだった。
だから無いと逆に不安でしょうがなくて、一式入れたジップロックを忘れた時は思わず途中下車してドラッグストアに駆け込んで事なきを得たほどだ。
いや、それらは無くても大丈夫だけれど「持ち合わせていない」という不安のほうがだめだった。

そんな私だからまっとうに社会に出て、まっとうに恋愛出来るとは思ってもみず、私が好きになった目の前の彼を見てどうしても同情してしまうのだ。
『こんな面倒臭い女の子と恋なんかしちゃって、良かったのだろうか』という具合に。

「ヒロナ?どうしたの。さっきから俺の顔じーっと見てるけど」

カフェでコーヒーを飲んでいるカズからそう言われて、「んーん。なんでもないよ」と微笑み返す。
彼は「絶対何か考えてたでしょ」と納得せずに訊いてきたので、私は正直に言おうか迷う。
熱い紅茶に入れたシュガーの残り半分が入った紙筒を、畳んだ部分を広げては畳み、畳んではねじって手元で遊ぶ。

重度の潔癖症だったらきっとカフェなんて一番入れないだろう。
カップはちゃんと除菌されているのか、店員の手の衛生状態は完璧なのか気になるだろうし、お手洗いなんて気軽に使えるわけがない。
考え出したらキリがないしどこのお店にも入れなくなってしまう。

それに比べて私は騙し騙し、考えすぎないようにしながら生きてきたので、この空間が耐えがたいとまでは思わずに済んでいる。一応お手ふきは持参しているシートを使用してしまうけれど。
カズはもうひとくちコーヒーを飲むと、思い出したように言った。

「そう言えば今度会社の親睦会で花見があるけどどうする?」
「ああ、昨日回覧で回ってきたね。一応うちの部署みんな行くらしいから私も行かないわけにはいかないかなって」

大手医療機器メーカーであるうちの会社は、毎年春になると花見親睦会をやっている。
それぞれの部署で出席アンケートをとるのだけれど、部署によって人数の編成も違うのでほとんど出ないところもあれば、半分以上参加するってところもある。
私の所属するリース部門はほとんど女性社員で構成されていて、ノリの良い人が多いので参加する人が結構多い。カズのところの企画営業課もほとんど参加したと思っていた。
そしてこの花見親睦会は3年前の私たちの出会いの場でもあった。

「また席替えとかシャッフルなんだろうなぁ。あれってよく考えたら合コンに近いよな」
「あはは。そうかも。まぁそのおかげで私たちも縁があったわけだし」
「うちの課長もそれで奥さんと結婚したらしいよ」
「そうなの?じゃ社内公認コンパだね。うーん、でも今思うと奥さんの立場だったらちょっと心配かなぁ」
「いや、結構目光らせてる奴多いから逆に変な事したらすぐ左遷って話だぜ」
「そういえば私が動けなくなって変に介抱しようとした男の人、消えたもんね」
「俺すぐ報告したもん。しかも俺の隣に座ってたのがそいつの直属の上司だったし」
「そうなの!?」

お花見の時に私の隣に座った先輩の男性社員は、やたらお酒を注ぎたがる人だった。

私はあまりお酒が得意ではなく、ただでさえお酒の液体やカップや食べ物が外気に当たっている中での飲食だったので、ちょっと居心地悪く感じはじめていた。
そのおかげで余計に気分が悪くなってしまい、宴会が後半にさしかかったところでダウンしてしまった。

みんなお水を差し出してくれるけれど、そもそもそのカップを除菌シートで拭きたかったし、共用の水のペットボトルの注ぎ口も拭いて水を入れてもらいたいのが本音だったから、その時は本当に無理だと思って受け取ることができなかった。

自分のバッグにペットボトルを入れてきたはずだと思って探るもほんの一口しかなくて、自販機に行こうと中座したところ、ふらつく私が心配だからと隣に座っていた先輩がついてきた。
どこの部署かも忘れてしまったけれど、顔だけはそんなに悪くなかった気がする。ただお酒の匂いがぷんぷんして、彼がついてきてくれるのは正直迷惑だった。

少し進んだ先で、やんわり断ろうとしたらそのまま腰を抱かれ、人気のない遊歩道のほうに連れて行かれそうになり、気付いた瞬間さすがに蒼ざめた。
ニコニコと変に親切にしてくるのも恐怖でしかなかった。腰に回された手が熱く汗ばんでいるのが服越しに伝わってきて、いよいよ気分が悪くなった私はとうとうその場でしゃがんでしまった。

どうにも動けなくなった私を抱き起そうと背中や腕に触れる手が嫌で、気持ち悪さに頭がぐわんぐわんしていたところ、
「あれ?リース部門の人ですよね?どうしたんですか?」と声をかけてきたのがカズだったのだ。

先輩は変に慌てて「自販機に水を買いに行こうとした」と言うと、カズは「こっちにあるのはトイレと公園出口だけですよ。それに水だったらここの自販機はどこも売り切れでしたし、コンビニにしかないですよ。今買ってきたところなんであげますよ」と私に合わせてしゃがんでくれた。

私はようやっと顔を上げると、カズが目と目をしっかり合わせて「大丈夫?」と私の意識を確認してくれた。
そしてコソッと「もしかして、嫌?」と訊ねてくれた。
たぶん「この状況・先輩のことが嫌だったりする?」という事だと感じたので、私はかすかにコクリと頷いた。

それを確認したカズはすっと立ち上がってスマホを確認しながら「あ、先輩見なかったかって今宴会にいるメンバーからメッセがきてるんですけど」という言葉に先輩は「え?そうか?じゃ、じゃあ俺戻ろうかな。この子お前に任せても平気か?」と半ばホッとしたようだった。
きっと自分でもまずいところにカズが現れたと思ったんだろう。
先輩は来た道を戻っていなくなった。

私はカズに手首をそっと引かれ立たされると、少し歩いた先のベンチに落ち着いた。
するとカズは手に下げていたビニール袋から、ペットボトルを私に差し出した。

「ちょうど水が足らなさそうだなって買い出しに行ってたとこ。俺、君の斜め前に座ってたから、ちょっと前から具合悪そうだなって気にしてたとこだったからちょうど良かった」

私はその時に何てリアクションをしたのかよくは憶えていないけれど、とにかくホッとしたのと、気持ち悪さがいくらかラクになったのもあって受け取ったペットボトルを素直に開けて飲んだと思う。

冷たい水がひやりと喉に通る部分を感じながら、ベンチ前に一つだけ外れたように咲く7分咲きのしだれ桜。
白い街灯は枝の蕾の膨らみを陰にしていて、不思議と居心地が良いと思った。

その時ふと、気が付いた。
カズが私を立たせるのに手首に触れた事。
手を繋いでここのベンチまで連れてきてくれたことを。

そして頭がぼうっとしていたとはいえ、それが全く気にならず不快に思わなかったこと。
話した事はその時が初めてだったし、社内でも見た事ある人だと思う程度の接点しかない。

それなのに私の部署のこともきちんと知ってくれていて、ずっと具合悪いのに気付いて気にかけてくれていた。

その事に気が付いた瞬間、自分でも分からないけれど「この人となら大丈夫だ」と、直感めいたものを感じた。
ストンと心に降りた何かに必然だと納得してしまうような不思議な感覚だった。
カズにお礼とその思いを伝えたくて、私から連絡先を聞いたのがはじまりだったんだ。

そんな出会いを思い返して、
「……どうして私でよかったの?」
心の内から漏れたようにぽつりと口にしてみた。

カズは私の言葉に、「急にどうしたの。式場打ち合わせの帰りで、気が変わったとか言うなよ」と困ったように笑ったので、私はあわてて否定する。

「そんなんじゃないって。……ただ、純粋に聞いてみたくなっただけ」

私がこんなことを聞くのは珍しいものだからカズはちょっと考え込むと、ごく当たり前のように答えた。

「ヒロナの生活の仕方が、とても清潔感があっていいなって感じたから。多分ヒロナが気にしていることは、別に俺にとってそれはさほど重要なことじゃないよ。それに俺も綺麗にしなきゃなって心がけるようになれたしね」

あ、やっぱりこの人でよかったんだ。私。
あの時感じた同じ気持ち。

私はあの花見の夜までは、人と手を繋げないで生きていくのだと思ってた。

だって本当は土なんて何の汚れが染み込んでいるか分からないし、体育の鉄棒も色んな子の手の汗が滲んでいそうで嫌だった。

学校での掃除も誰が握ったか分からない箒や、雑菌だらけで使い捨てじゃない雑巾を素手で触らなくちゃいけないのが死ぬほど汚いと思った。

図書館も誰が触ったか分からない本に見えない手垢が見えるような気がして、それらに触れた後の手が気持ちカサカサする気がするのも気持ち悪かった。

つり革なんて誰がくしゃみして口元を触った後か、どこから流れて誰が触ったか分からない小銭に触れた後の手で掴まれているのだと思ったら、手袋なしじゃ無理だった。

考え出したら生活していけないくらいに気持ちが悪すぎて、考えないようにしていたから何とか大丈夫だった。

けれどカズは、そうした生活の中で唯一私が「この人となら手を触れても大丈夫かもしれない」と思えた人だった。

彼がいるから、あらゆることが柔らかく、やさしく、何とでもなるように思える。
彼のおかげで私の生きる世界が殺伐としたものにならなくて済んでいる。

そして今、「やっぱりこの人となら私は大丈夫だ」と確信した。根拠はないけれど心が叫んでいる。
カズだから好きになったんだ。

……──ひょっとしたらあの時の私の心にすとんと落ちてきたものは恋だったのかもしれない。

彼が無造作にテーブルへとおいた手に、私は手をそっと重ねる。すると彼が指輪を確かめるようにやんわりと指先を握った。
彼の温かな手の内で左手薬指に嵌められたプリズムは、私の方が一目惚れだと気づいた恋にはにかむように小さく煌めいた。



( あなたがいると世界の輪郭があまく、やさしくぼやける。良い具合に。 )