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第1章, 高卒本部長の経歴 ②


1-4. 異色の経歴のスタート

河田氏に「人生の中で最も転機となった出来事は何か?」と尋ねたところ、「高校時代に始めた音楽活動」かもしれないと答えた。

一見するとテクノロジー業界でのキャリア形成に必要な"スキル獲得"や"人脈作り"とは無縁に思える。しかし彼はこの活動こそ、マイクロソフトの本部長として第一線で活躍する現在のキャリアをスタートさせるきっかけを与えてくれたものかもしれないと語った。 言わばバンド活動は、彼が築き上げてきた「異色のキャリアの原点」なのである。

彼が音楽に興味を持ったのは中学生時代。父親の持っていたビートルズのレコードを聞いたことがきっかけだった。その後、お年玉を貯めて初めて購入したヤマハのギターは今も大切に保有しているという。

高校生になると他校の同級生とバンドを組み、ハードロックやヘヴィメタルの曲をコピーするだけでなく、自らが作曲したオリジナル楽曲の演奏もするようになり、どんどんバンド活動に熱中するようになり、1990年代初頭、このようなジャンルでバンド活動を行っていた若者のほとんどが長髪であったが、彼もまた例外ではなかった。

自然と髪を伸ばし、派手な服を着て、本人曰く「街で見かけるヤバい奴になっていた」そうだ。また、活動資金を得るためにアルバイトも行っていたため、次第に学校は休みがちになり、勉強は疎かになっていった。

1-5. 高校卒業、大学中退、そして回り道

彼が高校を卒業する1993年の大学進学率(全国平均)は「43.3%」。現在より10%程度低かったが、進学クラスに在籍していた彼の周囲は「大学進学が当たり前」の環境だった。

進学校に通う生徒(のほとんど)は今も昔も、親や教師などの周囲から「進学」を期待されている。彼自身は大学で"学びたいこと"や"やりたいこと"があるわけではなかったが、クラスメートのほぼ全員が進学する環境、周囲から発せられる「進学への期待」は肌で感じていたであろう。彼は、周囲に勧められるままに地元大阪の私立大学を受験し、学生生活がスタートした。

しかし、大学に入っても音楽活動に夢中だった彼は授業にはほとんど出席しなかった。結局、学生生活に大きな意義を見出すことができなかった彼は、2年生の終わりには大学を中退してしまった。

大学中退後は数年間、バンド活動を継続していたが、「音楽で一生食べていこう」とか、「メジャーになってやる」など、明確な目標を持っていたわけではない。1990年代といえば小室哲哉氏に代表されるJ-POPが音楽業界を席巻した時代。

彼は当時を振り返り「自身のやっていることは需要が低い。売れたいとも売れるとも思っていなかった」と語った。
しかし、一見「回り道」とも思えるこの時代に経験したことが、その後の彼の人生を大きく変えることになる。


1-6. インターネットを通じて「できること」が増えていった

彼が20歳になった1995年、人生の転機が訪れる。Windows95の発売だ。

Windows95はマイクロソフトが制作した画期的なOS(オペレーションシステム)で、わかりやすいユーザーインターフェースや、高速作動、システムの安定性などが高い評価を受け、インターネットブームと共に爆発的に普及した。それまでのOSには「プラグ・アンド・プレイ」機能がなく、プリンターなどの周辺機器と接続するだけで一苦労だったが、Windows95の登場により企業や一般家庭のPC環境がガラリと一変し、「PC購入に対する心理的なハードル」が著しく低減されたと言っていいだろう。

それまでPCに触れたことがなかった彼も、流行の「インターネットに触れてみたい」という思いから、パソコンを15万円ほどで購入したのだが、この決断がその後の彼の人生を大きく変えることになった。

PC購入後は、暇つぶしにいわゆる"ネットサーフィン"に興じる時間が多かったが、そこで様々な人が自分の情報を広く世の中に発信していることを知った。

「自身も何らかの情報を発信して、様々な人と交流したい」と考えるようになった彼は、音楽活動の情報(メンバー紹介、ライブの予定など)をまとめたホームページを制作しようと考えたのだが、その道は簡単ではなかった。

現在であれば「WordPress」や「Wix」、「Jimdo」など、ノーコードで直感的にホームページを制作できる無料(あるいは低価格)ツールが多数ある。しかし、1995年当時は高額のWebオーサリングツール(ノーコードでホームページを制作できるツール)を購入するか、時間と労力をかけて「HTML」や「CSS」といったプログラミング言語を習得し、自らのセンスで制作する他に選択肢がなかったのだ。

当時発売されていたWebオーサリングツールといえば「ホームページビルダー」が有名だが、当時は高価だったため、経済的な理由で購入を断念した彼は、インターネットを通じてHTMLを独学で習得して、ホームページ制作を進めていったのだ。

HTMLなどのプログラミング言語を覚えるには相応の時間と労力がかかる。"アルファベットの文字列"を規則的に理解しようとするのは、何の知識も持たない初心者にとってハードルが高い行為にも思えるが、彼は「自分たちの活動を周知し、知らない人の目に留まるようにと明確な目的があったため、それほど苦にはならなかったし時間だけは売るほどあった」とも語っている。

そして、インターネットを通じて、彼の世界は少しずつ広がっていった。

ページに自分たちの活動内容をアップすると、それを見たユーザーからコメントなどのリアクションがあった。ページを更新するごとにリアクションはどんどん増えていったが、彼はそれに応えるのがとても楽しかったという。

さらに彼は、自分たちが制作した楽曲を「MIDI」という音楽ファイルに変換してホームページ上に公開する「宣伝活動」にも熱中した。

当時のPCは大きく、重たく、保存容量も非常に少なかった。またインターネットの通信速度は最大で64k。bpsの前に「G(ギガ)」どころか「M(メガ)」もついていない時代は、写真1枚を読み込むだけで数十秒、下手をすると1分以上を要するなど、現在からは考えられないようなネット環境であったが、彼はバンド活動を通じて、徐々にインターネット上で「できること」を着実に増やしていったのだった。

1-7. 人生の“転機”とベンチャーの立ち上げ

彼はインターネットと出会った経験が「人生の大きな転機の一つ」であったと振り返る。

ホームページを通じてインターネットの世界に熱中していった彼だが、肝心の音楽活動での収益はほとんどなく、アルバイトで生計を立てている状況の限界を将来への不安を感じていた。

そして24歳の時に、このままではいけない!と始めた人生初の就職活動は、想像していたほど甘いものではなかった。 
独学で"ある程度"のITスキルを身につけて程度で、それを証明する学歴や職務経験、資格などは何も持っていなかったため、「応募しては不採用通知を受け取る」日々が続いていた。

そこで彼は、「既存の会社に就職できないのであれば事業を立ち上げよう」と考える。

彼はバンドの広報活動を通じて「今後はさらにインターネットが普及してくるのではないか」という直感が芽生えていたため、IT系ベンチャーの立ち上げに取締役として参画することになる。

彼は当初、営業として中小企業に対してホームページの制作やネットワーク工事の請負などに従事したのだが、まさに水を得た魚のように、次々と成果を上げていった。彼の活躍の影響が大きく、事業は立ち上げまもなく軌道に乗り、数年で急成長。数名で始めたベンチャーが最盛期には社員300名を超える規模の企業へと成長していったのだ。

(一時的な)成功の背景には、独学でホームページ制作や運用を行ってきた実用的な技術力と知識力があったのは言うまでもないが、それに加えて彼には、いわゆる「天性の営業センス」が備わっていたのかもしれない。

彼は、現在の自身がリードする日本マイクロソフトの「スペシャリストチーム」に求められる素養として、高い「営業力」と「技術力」を挙げているが、氏の卓越した能力の礎はベンチャー時代に培われたものなのかもしれない。


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