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「転校生」
心というものがあるのだとしたら、私のそれはたぶん空っぽだ。「ほんとう」を探そうと真ん中を凝視してもそこには茫漠とした空虚が広がっているばかりで、いちばん外側の境界線の部分で化学反応を起こしている、たぶんそんな感じだろう。あるいは、私以外の人もみんなそうなのかも知れない。少なくとも今の私に、それを知る術はないといえる。
幼い頃に引っ越しを繰り返したのもあって、私には「地元」として感じられる場所がない。単純に期間の長さで言えば今住んでいるこの場所が最もそれに近いものなのだろうけど、通学をはじめとした活動の中心がまもなく隣接地域に移っていったのと、そもそも「地元」での生活があまり好きでなかったという理由で、確固たる「故郷」としてのイメージは持てずにいる。とはいえ、生まれた時に住んでいた町やその次に暮らした街の記憶は全くといっていいほどないし、三つめ、四つめについても思い出せることはかなり限られてしまった。正直、地元に対する愛着の強い人を見ると、ちょっとうらやましくなる。
もちろん、引っ越しを繰り返したことで得たものも決して少なくないだろう。日本各地の地理に明るくなるのは楽しいことだし、三回の転校を挟んで通った小学校どうしを比べてみるのも面白い。友だちや学校の先生、地域の人たちを含めてさまざまな人間関係を築くこともできたし、多様な文化にも触れる機会を得られた。人格形成の重要な時期にそうやって色んなものを「つまみ食い」できたことはおそらく貴重な経験だろう。
それでも、やはり寂しいものがある。今のように幼い子供にまで携帯電話が普及していたわけではなかったので、引っ越しとはすなわち一生の別れにほとんど等しかったのだ。何か月か続いた文通はまもなく途絶えてしまった。その気になれば固定電話なんかで連絡を取ることができたかもしれないが、新しい環境に慣れるのに必死で、かつての生活を顧みる余裕はなかっただろう。そもそも、転校前の私もまた「転入生」だったわけで、たかだか一、二年で築くことのできる友情にも限界がある。
それもあってか、SNSの普及した今では逆に、地理的に離ればなれになってしまったかつての知人とインターネット上でのつきあいを続けることに抵抗を感じることが多い。そこに「人」がいるとう安心感、同じ時間と空間を共有したという事実は、たとえそれが短くて、ありふれたものだったとしても、空っぽの心の中に、確かな重みをもって生きつづけるものなのだ。