「国語」という呼称は適切なのか? ―「日本語」教育のすすめ―
「国語」といえば、物語や論説文を読んだり、漢字や言葉を勉強したり、現代文法や古典文法を習ったり...といった、学校教育の中でも主要な科目を指すのだということは、誰もが認める事実でしょう。私自身、「国語」の教科書を使い、「国語」の先生の話を聞いて、「国語」の試験を受けてきた人間の一人です。そればかりか、あらゆる教科の中でも一番好きなのがこの「国語」であるほどでした。
しかし、それと同時に、ずっと気にかかっていたことがありました。それは「国語」という呼称についてです。
「国語」という教科名を文字通りに受け取るなら、それは「国の言語」、すなわち「日本国の言語」であるということになるでしょう。すなわち、私たちは「日本国の言語」を学ぶために「国語」の授業を受けてきた、あるいは受けているということになります。でも、私たちは国語の授業で本当に「国の言葉」を学んだと言えるのでしょうか?
例えば、私は日常的にいわゆる標準語を話しますが、大阪方言を使う友人と話すときは、多かれ少なかれその影響を受けているという自覚があります。また、私の両親は東北地方の出身なので、親戚一同はほとんど揃って東北方言を話します。中学校や高校の修学旅行先の沖縄や北海道では、沖縄方言(沖縄語)やアイヌ語の言葉が紹介されていました。それだけではありません。私たちの身の回りには、小説の言葉、漫画やアニメの言葉、若者の言葉...といった具合に、多種多様な言葉が溢れているはずなのです。それなのに、「国語」の中で扱われる言葉は、ほとんど現代の規範的な標準語だけだといっても過言ではありません。
国語が「国語」という名を冠する以上は、私たちの国で話されている言葉について、もっと広い視点を持つべきなのではないでしょうか。伝統的な小説で用いられてきた言葉や、論説文に使われる言葉、契約書や説明書に使われる言葉、それらに込められた意味を明確に読み取れるようになることは、もちろん、私たちにとって必要な技能でしょう。でも、それだけが果たして「国の言葉」を学ぶ意義なのでしょうか。私たちが普段当たり前のように接し、使っている豊かな言葉を通してこそ、見える世界があるように思えるのです。それらを「正しくない」とか「低俗的だ」といった理由で退けてしまうことは、言葉を介した人々の営みを俯瞰すべき視野を狭めてしまうことにつながりかねないと、私は考えます 。
私が「国語」という呼称を避けようとするのには、もう一つの理由があります。それは、「私たちは、それが「国の言葉」だからその言葉を使っているのではない」ということです。
私は今こうして日本語で文章を書いているのはなぜか。韓国語や英語やフランス語ではなく、わざわざ日本語という言葉を選んだのは、単純に私がこの言葉に親しみ、さまざまな場面において用い、それによって人間関係を築き、知識を深めてきた過去があるからです。決して、「国の言葉だから」日本語を話しているわけではありません(そもそも、日本国が正式に日本語を公用語として定めたという事実はなかったはずです)。日本という国があって初めて日本語が成り立っているのではなく、むしろ日本語や、中国語、韓国語、アイヌ語、沖縄語、ポルトガル語、スペイン語、オランダ語、英語、そのほか、これらの分類に収まりきらないような色々の言語がぶつかり合い、混ざり合う中で、日本という国が生まれてきたのです。そればりか、現代においてででさえ、政治用語から文化受容の次元に至るまで、日本語以外のいわゆる外国語から、少なくない影響を受けているのです。そのような事実をまるで無視するかのように、「国語」という言葉で都合よく「日本語」を規定してしまうことは、あまりにも傲慢な態度であるように思えてならないのです。
もちろん、だからといって、規範的な日本語の学びを一切否定してしまうというのは明らかなやりすぎです。むしろ現代の日本という国が日本語という言語に大きく依存したシステムで動かされている以上、日本での学習の中である程度の日本語運用能力を身につけることは必定であるといっていいでしょう。では、そのような要請と先ほどの多様な「国語」のあり方を両立するためにはどうすればよいのか? そのために、私は新たに「日本語」という科目を設けることを提案します。
教科として「日本語」を設けることのメリットは、主に二つあります。一つは、これまでの「国語」が負ってきた役割のうち、「規範的な日本語を学ぶ」という仕事を「日本語」に譲り渡すことで、さらに広い視野で、さまざまな言語現象を通して、私たちの身の回りで行われるコミュニケーションのあり方やその産物を眺めることができるという点。そしてもう一つは、これまで「国語」の中である意味片手間になされてきた「規範的な日本語の学習」を、「日本語」が一手に引き受け、より深く重点的に行うことができるという点です。
「普段話している言葉なんだから、日本語なんて習うまでもない」とお思いの方もおられるかもしれません。私自身、以前はそう思っていました。しかしながら、中学生や高校生の書いた文章を読んだり、あるいは英文法を教えたりする機会が増えた今、日本語話者による「日本語の学習」の必要性を実感しています。
そもそも、私たちの日常の言語活動は多様であり、その多くが既に人間関係や社会環境によって築かれた文脈に依存した結果、規範的な日本語からはある程度逸脱したものになっています。このように普段の言語使用が規範的な日本語から逸脱すること自体は、全く問題だとは思っていません。ただ、そのことを理由に規範的な日本語を見につけることを拒む態度は、容易に認められるものではないと思っています。規範的な日本語というのは、初対面の相手と話したり、大勢の読者を想定してものを書いたりするときなど、前提となる文脈が共有されていない中で、自分の主張をより正しく伝えるためにあるのです。そのような場で、話し手や聞き手が相互理解の標準となる規範的な日本語を理解し運用する能力を全く持ち合わせていなかったら、そこには誤解やそれに基づく争いが起こってしまうでしょう。
また、規範的な日本語の知識は、私たちがいわゆる外国語を習得する際にも役立ちます。外国語の習得においては、ひたすら聞き流すなどして第一言語の習得と同じ要領で身につけるという手もありますが、幼い子供ならともかく、少なくともある程度成長した段階においては、まずは体系的な文法知識を学習する方が間違いなく効率的で正確です。そしてそのような文法知識は、既に身に付けている言語を手がかりに理解していくしかありません。しかも、そのような言語に対する体系的な捉え方は、知らずしらずのうちに備わっているものであって、改めて指摘されないとなかなか気づけるものではないのです。つまり、新たな言語を学習する前段階として、既に身につけた言語を客観的に捉え直すという作業が必要だと、私は思うのです。
さらに、「日本語」の学習は近頃重視されるようになってきている作文教育とも密接に関わっています。そもそも作文は普段の言葉遣いとは全く違う、規範的な言葉で書かれるのが普通です。論理的な文章構成とか、主張の一貫性といったものは、規範的な日本語の学習の延長上に行われるものなのです。これまでも、日本人はまとまった文章を書くのが下手だ、そもそも日本語という言葉は非論理的だといった言説がまことしやかに囁かれたことがありました。しかしこれらは全くの偏見であって、普段接しないような言葉の使い方に、私たちが慣れていないだけなのです。
このようにして体系的な日本語を「日本語」として学ぶ一方で、私たちは「国語」を通して、身の回りのさまざまな言葉について、またそれによって生まれる人との関わりや心の動きについて、そしてそれによって議論されてきたさまざまな問題について、考えていくべきでしょう。このような営みに、果たして「国語」という名前が適切なのかどうかはわかりません。できることなら、これまでの「国語」観から脱却して、より広い視野で言語世界を見つめ直せるような呼び方が生まれてくれればいいなとも思います。もちろん大切なのは外見ではなくて、中身の方ですが。
現代の「国語」が、ごく一部の言語活動にしか目を向けておらず、しかも規範的な日本語の学習には振り切れていないこと、これらの要因は私たちのことばを見る目を曇らせる一方で、規範的な日本語の習得をおろそかにしてしまう可能性があると、私は考えます。社会や文化に対する理解、外国語の早期習得、論理的・批判的な思考能力の養成といったさまざまな課題が突きつけられている現代だからこそ、私たちは改めて目の前の「国語」を見つめ直す必要があるのではないでしょうか。