なぜ甥っ子は可愛いのか?
隔世遺伝という言葉があるが、僕の気質の半分は叔父から受け継いでいるような気がする。
これは正確には「隔世遺伝」に当たらないとは思うが、僕の中では確実に引き継ぐ「何か」を感じている。
叔父は小説家志望の文学青年で、出版関係でアルバイトを転々としながら作品を書き溜め、デビューのきっかけを狙う学生時代を過ごしていた。
一つのバイトを辞め、他のバイトの面接を受けに行った時に叔父の人生は彼の想像以上に展開する事になる。
昭和50年代のある日、神田の雑居ビルの一室のドアを叔父はノックする。
ドアには手書きで「日本ソフトバンク」と聞いたことのない社名が書かれた紙がテープで貼ってある。
「どうぞお入りください」
中から男性の声が聞こえる。
バイト慣れした叔父は事も無げにドアを押し開き中に入る。
ガランとした部屋の真ん中に会議テーブルが置いてあり、背後の窓からの逆光越しに一人の男のシルエットが見えた。
後日、熱を帯びた弟からの電話を受けた父から聞いた話は小学生だった僕にもその興奮が伝わってきた。
「おじさん小説家にならないのか」という気持ちも無くはなかったが、それ以上のやりがい生きがいを見つけてしまったんだな、という圧をなんとなく感じたものだった。
叔父は彼が子供の頃からの趣味だったスキーで骨折し、その時に受けた輸血が原因で生涯C型肝炎で苦しみ、肝臓癌で60歳になる前に亡くなった。
日本ソフトバンクの大躍進は知らない人はいないだろう。
「僕はソフバンとは一切関係ないよ」と言える人もいないような大企業に成長したその会社の黎明期に孫正義とタッグで働いた叔父を僕は父親よりも尊敬している。
そして、叔父から孫正義の熱い話をたくさん聞かされている僕は孫会長がなんとも憎めない人になったのだ。
そうだ。タイトルの「なぜ甥っ子は可愛いのか?」に行く前に話が終わってしまうところでした。
僕は母がたの祖父と祖母にとって初孫で、今思えば他の従兄弟たちに申し訳ないと思えるくらい可愛がられて育った。
その分、すこし年下の妹や従兄弟などが可愛くて、よく遊んでもいた。
しかし、みんな大人になってしまって「ああいう関係ってもうないんだろうか?」と心に寂しさを感じ、そしてその寂しさも忘れかけた頃に兄弟や義兄弟たちが子供を産み始める時期になった。
そこで新しくも懐かしい感覚を再び味わうことができた。
甥っ子や姪っ子のなんと可愛いこと!
自分の子供ももちろん可愛いのだけれど、甥っ子や姪っ子の天然の可愛さ、育ってくるにつれて叔父である僕に懐いてくる遠慮のなさや愛らしさは我が子のそれを超えて無責任に撫で回したくなるものがある。
自分の子供は、ある程度の年齢を超えると、それまで一緒にいた時間が長すぎるのかギクシャクしてくるものだけれど、甥っ子姪っ子との関係はそうはならない。
むしろ、年頃になった甥っ子や姪っ子は叔父に相談を求めてきたりもする。
人間は素直なものに心を開いてしまうものだ。
斯くしてバツイチである僕には複数の甥っ子と姪っ子がいるが、どの子もすべて可愛い。
と、こんな風に僕も叔父さんに可愛がられていたんだなとこの歳になって思う。
実の父親はガジェットにほとんど興味がなく、ファッションにも無頓着だったが、子供である僕はどう言うわけか、お洒落にも小道具にもクルマにも興味がある。
僕が初めて一眼レフのカメラを持ったのも叔父からのプレゼントだった。
叔父が使い古したペンタックスSPを交換レンズ数本と一緒になんでもないただの日に紙袋に入れてポンと手渡してくれたのだった。
それまで我が家にはOLYMPUSペンの最廉価モデルしかなく、それで家族の記念写真やスナップ写真の全てをまかなっていた。
叔父が僕の二十歳の誕生日に銀座のフランス料理をご馳走してくれた時、帰り際、クロークから出てきたコートを叔父に手渡す際にそのあまりの軽さに驚いた。
「もう身体が弱ってしまって軽いカシミアのコートしか着られなくなってね。このコートもいずれやっちゃんにあげるから」と笑って言っていた。
クルマは質実剛健にボルボを乗り継ぐ叔父だった。
男というものはほとんど父親と分かり合えないものだと思っていた。我が家がそうであるように。
しかし、大人になって知り合った友人の中には父親とまるで友達かのように付き合っている人がいて驚いたり羨望したりする。
僕もできればそうなれたらよかったと思うが、こればかりは仕方がない。
でも、もし叔父が長生きしていたらそんな関係が築けたのではないか、と今でも時折夢想することがある。