[読書雑感]デカルト『方法序説』
教科書などで引用されている著書の原典にあたると、思いがけない発見をすることがあります。
chapagiにとって、デカルト(谷川多佳子[訳])『方法序説』(岩波書店、1997年)が、そのような著書の一つです。chapagiの座右の書の一つでもあります。
chapagiが高校生だった頃、デカルトといえば、国語の評論文などにおいて、近代的自我(「我思う、故に我あり」)や主客二元論の祖にして、(悪しき)近代合理主義の生みの親の枕詞のように言われることが多かったように記憶しています。翻訳者による解説文においても、「デカルト哲学を祖とする近代思想の超克や解体、あるいは脱構築が問題」となっているとされています(同書135頁)。
ですが、実際に『方法序説』(の特に第一部から第三部まで)を読んでみて、「悪の親玉」的なデカルトに対する見方が大きく変わりました。
「良識はこの世で最も公平に分け与えられているものである。」(同書8頁)という書き出しから始まる第一部で、デカルトは、この『方法序説』は、(デカルト自身の思索という)一つの話として見せるものであり、そこには真似て良い手本とともに、従わないほうがよい例もあるのだということをはっきり述べています(同書11頁)。
大変失礼ながら『方法序説』を読むまでデカルトのことを「近代合理主義の悪の親玉」だと思っていたchapagiは、この一節で不遜にも「デカルトって実は謙虚なんだなぁ。」と思いました笑
また、続く第二部では、「理性を正しく導く」ためにデカルトが貫徹しようとした4つの規則について書かれています。
①明証性の規則(真であることのみ前提とする、速断と偏見を避ける)
②分析の規則(難問を解きやすい小問に分解する)
③総合の規則(小問を順序立てて解いていく)
④枚挙の規則(分析と総合の過程に見落としがないかチェックする)
chapagiはこの部分を読んで、いかに自分がデカルトについて誤解していたか、そして、なぜ『方法序説』が長きにわたって時の試練に耐えて読み継がれてきたのかの一端を垣間見た気がしました(『方法序説』が出版されたのは1637年です。)。
デカルトが導き出した4つの規則は、近代合理主義を云々する以前に、何か解決しなければならない問題に直面した人が行うべき思考のエッセンスを単純明快に示したものだからです。『方法序説』の正式なタイトルが『理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法序説』とされていることの意味がよくわかりました。
そして、chapagiが『方法序説』を読んで、感銘を受けたのは第三部です。
デカルトは、4つの規則に厳格に従い、自分が今まで前提としてきた意見や考え方を全て疑い、今一度何が「真」であるのかを見極めようとします。
しかしながら、そのような中であっても、生きていく以上は、ひとまずの間、自らの行動や生活の指針とするべき意見や考えについては、持っておかなくてはなりません。
そこでデカルトは、そのために必要となる3つの道徳規則を導きます(デカルトがこのような道徳規則を導いていたことは、『方法序説』を読んで初めて知りました。)。
①ともに生活する人のうちで最も良識ある人が承認している、極端からは遠い、穏健な意見に従って自分を導くこと
②一度決めた意見には一貫して従うこと(デカルトは、森でふらふらと迷い続けるよりも、どこかへは行き着くだけましであると述べています。)
③世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように常に努めること(自分の力の及ぶ範囲にあるものは自分の思想しかないと信じるように自分を習慣づけること)
執筆から何百年経っても読み継がれる書物を書き、当時からして「画期的・革新的」であったと思われる思索を編み出したデカルトが、このような道徳規律(特に①と③)をも導き出しているのは驚きでした(①の「穏健な意見」というのは、妥協的意見ではなく、「中庸」といった徳に近いものなのかなと思いました。攻殻機動隊の草薙少佐は③のようなことを冒頭で言ってますよね笑)。
こうしてみると、デカルトは、『方法序説』で、まさに書名のとおりの思考方法や、(思考方法の補完的規律としての)道徳規律を導き出しており、長く読み継がれる理由があるのだなと気付かされました(ただの「批判のための枕詞」に持ち出されるだけの書物であったら、ここまで読み継がれることはなかったのではないでしょうか。)。
(古典的作品に限ったことではありませんが)原典を読むことの大切さと、古典的作品の奥深さを改めて実感した書物でした。