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虚構と現実の狭間。VTuberという不思議な宗教体験。

先日、にじさんじ所属のVTuber(ライバー)・郡道美玲先生が卒業した。

卒業配信も湿っぽい雰囲気は一切なく、終始郡道先生らしさ全開の素晴らしい配信だった。

VTuber界隈は動きの激しい業界であるから、引退・卒業は珍しいことではないが、推していたVTuberがいなくなるというのはやはり一抹の寂しさを覚える。

「もう二度とこの人の配信は見れない」というのは、ある意味VTuberにとっての”死”を意味する。だがVTuberの”死”は、現実世界での死別とは違う不思議な感情を想起する。勿論現実世界での死別とVTuberの卒業では、哀しみの深さが違うのは承知の上だが、そうした程度の問題を抜きにしても、VTuberの”死”には不思議な希望のようなものが漂っている気がする。


つくづくVTuberとは不思議な存在である。虚構と言うには物理的だし、現実と言うには曖昧だ。

以前、「現実とフィクションの区別がなくなっている」という記事を書いたが、VTuberは”世界のフィクション化”を推進する先鋭の存在であると思う。VTuberについては最近ますます多くの識者が見識を深め、その存在や可能性について論じている。僕も「乗るしかない、このビッグウェーブに」と思って少しかんがえた短いお話である。

『人類の起源、宗教の誕生』で霊長類学者の山極寿一氏は折に触れ、とあるゴリラのエピソードを引き合いに出している。

曰く、ゴリラやチンパンジーの群れでは、ある個体が群れから離れるとその個体を死んだものとして扱うらしい。なぜかというと、ゴリラやチンパンジーは身体的な接触によってお互いの存在を確かめ合っているからだ。

逆に言えば人間は、身体的接触以外のもので存在を感じられるということだ。これは『サピエンス全史』の主張である「人間は虚構を信じる能力によって繁栄した」とも一致する。

人類がこの能力を発達させたのは、熱帯雨林を出てサバンナで餌を見つけなくてはいけなくなったからだという。餌の少ない広い土地では、群れから離れて遠征に出た個体を信じて待つ能力が必要とされる。

虚構を信じることが出来るようになったときに宗教の萌芽が生まれる。例えば、死者はまだ世界のどこかにいて再び会えるという神秘的な感覚。

一方で現代では皮肉にも、身体的でない感覚は信じないという考え方も存在する。科学の発達がいくつもの宗教的な物語を打ち壊すにつれて、神秘的な感覚はどこか胡散臭い感じで受け入れられることになった。

柳田國男は『山の人生』において、昔の日本で伝えられていた山人伝説を多数伝えている。かつては山は平地とは違う異界として捉えられていたからである。

加えてかつては、子供が行方不明になる「神隠し」も一般的なモノだったらしい。子供が神隠しに合った親たちは、山の世界を想定することで「いつか会えるかもしれない」という気持ちを抱けたためまだ救われただろう、と柳田は書いている。

何が言いたいかというと、VTuberが”死んだ”時の感覚は上記のように大昔から人間が感じてきた神秘的なフィクショナルな感覚と同じなのではなかろうかということである。

キャラクターとしてのVTuberはいつかいなくなってしまう。だが、配信がなくなってもアーカイブが消えても、その存在はこの世界のどこかに存在している。

生きていれば、いつか形を変えて再び出会えるかもしれない。そんな希望があれば世界はカラフルに色づいて見える。

現代人が忘れようとしている、原初の感覚をVTuberはもたらしてくれるのかもしれない。




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