SHE-02

これは誰がなんと言おうと脚本なんだと思う。脚本はセリフとト書きだけで、できていて、ト書きは補足説明に過ぎないから、結局セリフの集まりが脚本なんだけど、だからこれは全部セリフなのだ。セリフとセリフじゃないものを分ける明確な基準はない。特に書いていない限り僕のセリフだとか約束しておけばそれで定義的にはなんの問題もない。それで人に渡して映像を撮ってもらったり舞台をやってもらうんだったらちょっと不親切すぎるけど、自分でやるんだったら全然問題ない。立派な1万字の脚本を書き上げたと胸を張って言える。

自分で自分の生活を成り立たせる。まずはそこからだ。絶対に何がなんでも成り立たせる。ここは無理をするところ。無理をしてでも自分の生活を成り立たせる。すべてはそこから始まる。いずれは、といっても案外すぐかもしれないけど、自分が作ったもの、自分の行動を直接お客さんに売って生計を立てていく。ただ、すぐは難しい。売るものを用意する能力も、売る能力も、乏しい。一番簡単なのは労働力を売ること。そこからでいいからまず自活。作る能力、演る能力、売る能力は修行が必要。いまはその途中。だからすぐには売れない。段階というものがあるから、今はそういう時期、雇われる時期だというだけのことだ。でもこうやってどんどん生み出していけるから大丈夫だ。僕は生み出し始めた。作り始めた。淀みなくどんどん言葉が流れていく。言葉に限らず、何かのかたちが淀みなく流れていく。それはエコノミーを形成するだろう。最初のお客さんがいつ来てくれるかワクワクする。商品は棚に並び始めたと思う。ついに始まった、と思う。それでも雇われる。参入離脱自由!嫌なとこなら逃げてくればいいだけだ。不安になっても意味ないから考えない。前に進むだけ。

動揺したらまずい。楽しよう、楽できるために合わせようとすると実は要求水準が上がる。自分にとって意外なことを要求されるからだ。自分にとって本質的なことはずっと追求し続けてきてるから高い要求も想定の範囲内。だから、実際に実力が伴っていないとしても動揺することはない。

脚本と哲学とエッセイは混然としていると思う。混然としてて良いと思う。事実を書き連ね、主観を描き、抽象度を高めていく。この点において三者は同じものだ。

書くことで人は独立する。だが前提もある。あまりにも撹乱的な環境では書くことに集中することはできない。安心しきってストレスがなくなるのもまずいが、ストレスが多すぎても書けない。二つは別の条件によって支えられているはずだ。良い塩梅を探るというとき、人は中間に答えがあると思いがちだが、違う。二つの異なる条件を満たすだけの話であることが多い。つまり、具体的な環境としてはストレスは軽減すべきだが、社会的な環境としてはストレスは必要である。快適な環境を壮絶な社会的ストレスによって成り立たせるべきである。そこに文明がある。文化がある。作品がある。演技がある。

もがいてみるもんだなと思う。意外と人は見ている。もがけば、もがいているところを見られている。人には段階がある。いきなり理想状況に行くことはできない。下積みがある。我慢がある。欠乏がある。それは仕方のないことで、欠乏込みで自立することが大事。いきなりいろいろ書けるようにはならないし、演じられるようにならないし。ただ、変に先を見越して布石を打とうと思っても、意味はあるけど大きな意味はない。具体的な苦痛と繋がった言葉じゃなければ人には伝わらない。そして、世の中の法則は非常に単純であり、新しい方法を編み出そうとしてもあまり意味がない。結局当たり前のことに立ち返ることになる。

ひたすら前に進むしかない。ダメだったものは忘れて次に進むしかない。ダメな結果が出たらより強くなって再び戦えばいいだけ。世界は広いから、自分がマトモならどこかの時点で拾われる。だから、ダメな結果を恐れているのが一番ダメ。怯えている間は成長しないから、強くなることが大事であって勝率を100%に保つことが大事なのではない。

起こった悪い結果はすべて自分が悪い。他人を責めるのは楽だけど成長が止まるし、自分を根本的に責めるのも成長が止まる。自分の判断がなぜ間違ったか、同じことが起こらないためにできる対策があるかを考えるべき。意味のあることだけやればいい。そんなに多くない。意味のあることをやっていれば泥沼に陥ることもない。停滞にも成長過程という意味が生まれる。成長していれば何も問題ない。不快さを除去できる環境ばかりではない。すぐには解決できないことが山ほどある。それでも時間が経つごとに成長していれば、それで良い。そのためには自分の責任を痛感することから始めなければならない。

小さくとも結果を出さなければならない。結果を出し続けなければならない。原理的に人の目に触れる場所で。注目なんか集まるわけない。それでも、見ようと思えば見れる場所で作り続ける。言い続ける。現実を毎日突きつけられるべきだ。甘くない。甘くない現実を毎日思い知り続けなければならない。見る人が見たらわかる。甘い人間はバレる。見る人というか、そういう人しか相手にしなくていい。見てわからない人なんかどうでもいい。そんなのはいくらでも動員できる。そうではなくて、社会がどう動いているか、理論の上でも経験の上でも知識量としても知り尽くしている、わかりきっている人間に認められればそれで大丈夫。あとはいくらでもついてくる。

自分にできること、ふとやってしまうことをやるしかない。やりたいことを考えるといらない自我が頭をもたげてきて余計なことをつらつらと言い始める。それは無視する。そうではなく、どうしてもこれはやらずにはいられないなというものをやるしかない。できることは、人にインパクトを与えられること。こなせるとか、そういう次元ではない。小さくてもインパクトを与えた実績しか信用ならない。あれば、そこから大きくしていくしかない。

クライマックスに抽象度をを一気に高めて、通常の会話ではあり得ない、留保なしの情報の伝達が行われる。そこに至るまでのどうでもいい小さな箱庭の中の権力ゲームが無に帰す。本質だけが残り、雑味が焼失する。単に消えるのではない。抽象的情報空間の炎の中で焼け失せるのだ。そのためには、雑味を細かく描かなければならない。

今の僕には言いたいことがあるはずもない。なぜなら、動くべき方向がわかっているから。行動しなければならないことが溜まっていて、それが解消されるまでは書けない。書こうとしても動けない状況についてこんなふうに延々と書き連ね続けることしかできない。文章は人間の置かれた状況が変換されたものである。今はこういう文章しか書けない。状況を動かさないといけない。

言葉だけじゃない。何を作っても、人間が生み出すものはその人間を映し出す。甘ければ甘い作品に、シャバければシャバい作品になる。作ることで自分を壊すことはできるだろうか?できるかもしれないが、並大抵のことではないと思う。普通は、何を作っても自分の弱さが示される。作ることで自分を強くするためには、相当の負荷がかかりながら作ることになる。

もがかなければ書きたいことは生まれない。もがいて、新たな状況になって、人から受けたものに反応して何かを書こうとする。そうでなければ、、、何か観た作品を模倣して何かを書こうとするかもしれない。しかしその場合は、既存の作品が自分との結びつきの中で特別大きなインパクトを与えるものである必要がある。

少しずつ発酵し、分化を起こす段階に来た。

いいなと思ったら応援しよう!