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「差別のない世界」は嘘で「差別を確認しあう世界」がいい

・まずはクイズ。

・お父さんと息子がドライブに出かけました。しかし、不慮の事故に。お父さんは帰らぬ人となり、息子は集中治療室へ。待ち構えていた医師は大声で叫びました。『私の息子だ!』さて、本当のお父さんは誰でしょう?

・つるの剛士さんのツイートが話題を集めている。

・畑でパクチーを育てていたらしい。それを、ある人間に盗られたとのこと。家族団らんの食卓にパクチーを添えようと楽しんでいたなら、何とも歯がゆい気分になる。しかも、パクチーを盗られた現場に遭遇したらしい。普通に怖い。

・しかし、気になることがあった。盗んだ人間を「工場で働いている外国人」と表現したことだ。大したことではないが、繰り返してみる。「工場で働いている外国人」「工場で働いている外国人」「工場で働いている外国人」

・ある人間を表現したいとき、それぞれ無数の分類があるはず。年齢、性別、身長、容姿、性格・・・。つるのさんは“職場環境”と“国籍”だった。

・『精神分析』という学問を作ったジークムント・フロイトが「無意識」という領域を発見した。どんな人間にも自分が把握できる「意識」の範囲外があるらしい。

・以前、視覚障害者と仕事をしたことがある。初対面で、自分の他にも数人が同席していた。まず一斉に名刺交換を始めて、ふと思った。「点字があるわけでもない名刺を渡しても意味あるんだろうか?いや、待て。こんなシチュエーション、この人にとっては日常茶飯事。何かしら意味があるはず。」

・意を決して聞いてみた。「あの、目が見えないと思うんですが、名刺を渡されるって意味あるんでしょうか?」自分でも頭がイカれていると思う。

・その人は優しく丁寧に答えてくれた。「意外と意味あるんですよ。名刺の厚みとか紙の質とか、その人の声とかで紐づけて思い出したりするものです。あと、目に近づけたらうっすら見えるんですよ。」

・自分は無意識に「視覚障害者」=「目が見えない」という分類を行っていた。実際は「視覚障害者」といっても、グラデーションがあって多様だった。「視覚障害者にとって、目に映らないものは一切意味のないもの」という無意識な偏見は、やがて差別に繋がっていたかも知れない。

・つるのさんはツイートを続けていた。

・「差別をしない」と言い切る人を自分は信用できない。なぜなら、誰しもが「無意識」に偏見や優生思想を持ち合わせている可能性がある。それはいけないことではない。仕方のないことだ。問題は「無意識」を自覚して常に疑えるか、ということだと思う。差別はいつも「無意識の自覚のなさ」から始まる。

「工場で働いている外国人」が、例えば日本国籍だったらどうだろう?盗みを紛らわすために工場員のコスプレをしているだけだったら?さらに、パクチーを盗んだのが日本人だったら、つるのさんは何と表現したんだろう?「差別の助長」と「被害者の泣き寝入り」はまったく別の問題なのだ。

・「差別をしない」と言い切れるからには、つるのさんは「差別のない世界」を実現できると思っているのかも知れない。しかし、それは嘘だ。差別や偏見を心から真に無くせるほど、人間は完璧じゃない。そして「差別のない世界」や「偏見のない世界」という標語は息苦しい。

・「これって差別かなあ?」と問えて、「差別かもね」と確認しあえる世界の方がよっぽど豊かだと思う。ブラックジョークのない世界には生きたくない。

・ちなみに最初のクイズ、答えはひとつだけとは限りません。

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