韓国の戒厳令から〜センチメンタルイジェミョン
2024年12月3日、大韓民国の大統領が戒厳令を出してから、予測出来ないことが起こる韓国という国の騒動についての経過を見ているうちに、国会で最大議席数をもつ「共に民主党」の李在明議員に興味を持ち、彼のことを調べてみました。
「白かろうが黒かろうがネズミを捕まえる猫はいい猫だろう」
と、記者会見で言ったのは韓国の最大野党党首、次期大統領最有力候補と言われる李在明(イ・ジェミョン)氏だ。
福島原発の処理水放出のさいの尹 錫悦(ユン・ソンニョル)大統領の対応に抗議するためハンガーストライキをし、タンカで運ばれたおじさん。
文在寅と一緒に日本製品不買運動を主導した「共に民主党」の反日議員。
北朝鮮への送金疑惑や中国のスパイとの繋がりも疑われ、前科もあり、現在も5つの訴訟を抱えている。
さらには彼の周りで7人もの不審な自◯者がいるし、彼の捜査をしていた検事も、左派の議員を有罪にする判事も、共に民主党に反対する者を弾劾、告訴してきた無敵のイ・ジェミョン。
先週飲みの席で、ある女性が「尹 錫悦はちゃんとした大統領なんだけど、李在明っていう悪い奴がいて、、」と韓国の戒厳令に関した話しを語り始めたが、話の冒頭から「悪い奴」という表現に引っかかるところがあって、でも出てくる情報を、日本の側から聞いたなら、李在明は「悪い奴」と言いきるのも仕方ない。
では彼はどのようにして今の彼になったんだろう?
李在明の少年時代
1963年の旧暦10月23日に生まれたと推定されている。
貧しい生活の中、母親が生まれた日を忘れてしまったそうだ。
戸籍上の生年月日は1964年12月22日である。
父親は教師や警官などしていたが賭博が好きで、炭鉱管理、農業など職を転々とし、賭博により僅かな財産も失う。
そんな子供の頃の李在明の夢は教師だそうだ。
理由はよく教師に叱られており、自分も教師になり叩く側になりたい、という憎しみからと自伝で話している。(自分は子供に優しい叩かない教師になりたい、とはならなかったんだね)
1976年、家族でソウル市に近い城南市(ソンナムシ)の工場地帯に移住してからは少年工として工場で働いた。
幾つかの工場で働いたが、ある工場で賃金をふみ倒され、ある工場では殴られて難聴と部分的な聴覚障害を負い、またある工場ではプレス機に左手首の外側が挟まり、手首の関節が砕ける骨折を負ったが、この程度のことで騒ぐと叱られると思い本格的な治療は受けなかったため障害が残り、今でも左手首は曲がり固まっているとのこと。
かなり我慢強い少年と言うか、怪我をしても言えない状況を想像すると切ない。
工場で身体中に傷を追った少年ジェミョンは、作業場の班長が高卒だったので高校出たら班長になれるかもしれない、と勉強を始めた。
あいかわらず賭博をやめられない父親は息子が勉強をすることを嫌ったが、もっと働かせるためだったのだろう。
城南市(ソンナムシ)
大韓民国京畿道(キョンギドウ)の市。
ソウル南部の江南区(カンナムグ)や瑞草区(ソチョグ)の開発に伴い、そこに違法居住していた低所得層のバラック小屋が強制撤去され、彼らが移り住んだ主な場所がソウルに隣接する城南だ。
ソウルを追い出された住民たちは当局に反感を抱き、左翼運動家が住民たちやその子供たちに、財閥や資本家が裕福に暮らしているせいであなたたちは貧困生活を強いられているのだ、と階級意識を植え付けていった。
マフィアが暗躍する町とも言われている。
左翼運動家や学生たちが夜間塾を開き貧困少年たちに勉強を教えていた。
ジェミョン少年もそこに通い勉学に励んだ。
李在明は、勉強をする時間を増やすために移動した部署で、ベンゼンとアセトンの匂いを嗅ぎすぎて嗅覚も失う。
さらに鬱病も患い、鬱病と障害を苦とし17歳の時、2度自殺を試みている。
しかし、ある人から「福耳だから何をやっても上手くいく」と褒められたり、中学卒業認定試験に合格したことなどで自身を取り戻した。
大学へは奨学金や生活費援助の制度を使い進んだ。
そして、障害者である自分にとって就職は難しいと考え、司法試験に挑戦することにした。
尹 錫悦(ユン・ソンニョル)大統領(現在職務停止状態)の少年時代はどうだったか
1960年12月18日(旧暦)、ソウル特別市城北区敦岩洞(トナムドン)(現・三仙洞(サンソンドン))で生まれた。
本貫は坡平尹氏(ハピョンユンシ)。
家系は、少論(ソロンパ)の宗長である尹拯(ユンジョン)の伯父尹文擧(イムンノ)の直系の子孫で、尹文擧と尹宣擧(イサニョ)の兄弟は、韓国の性理学の宗祖であり、文廟(ムンミョン)に祀られた18賢人の一人である成渾(ソンホン)の外孫でもある、、、、、、とにかく名門家系である。
父親は延世(ヨンセ)大学応用統計学科の設立メンバーである経済学者の尹起重(ユンキジュン)母親は江陵崔氏(カンヌンチョシ)。
崔鍾九(チョジョング)の娘で、梨花女子大学で化学を教えていたが、結婚後に退職した。
4歳の時、ソウル特別市城北区普門洞(ポモンドン)に引っ越し、1967年にキリスト教系の私立ミッションスクールである大光(テクァン)国民学校に入学した。
1973年、新しく開校した東大門区中和洞(トンデムングチュワドン)(現・中浪区(チュナグ))の中浪中学校に入学、父親の職場が位置する西大門区延禧洞(ソデムングヨヌイドン)に引っ越し、西大門区鷹岩洞(ソデムングウンアムドン)(現・恩平区(ウンピョンク)の沖岩(チュアンム)中学校に転校して卒業。
イ・ジェミョン少年が少年工として働き始めた1976年、ユン・ソンニョル少年は母校である沖岩中学校と同じ財団に属する沖岩高等学校に入学した。
沖岩高等学校の校友には、韓国の財閥SKグループの崔泰源会長もいる。
(要は名門私立高校ですね)
戒厳令後逮捕された国務長官も同校出身、大統領は自身の周囲を高校時代の先輩後輩で固めていたようです。
1979年、沖岩高等学校を卒業後、ソウル大学校心理学科に進学し社会現象を研究する心理学者になろうと考えていたが、「正義を実現するには法曹人になるのが最も簡単で安全だ」という父親のアドバイスを受けて、ソウル大学校法学部に進学した。
司法試験には1981年9度目の挑戦で合格となった。
李在明、弁護士から政治家へ
1986年に中央大学校修士課程法学科を卒業、司法試験に合格。
司法試験に合格寸前の時、掃除夫だった父親が胃癌で危篤状態になり入院した。
見舞いに行くと、父親が友達を集めて「私はあの子をあそこ(法学部)に送ったんだ」と言ったという。
李在明は特に反論はしなかった。
司法修習を終え1989年に弁護士になった李在明は、城南市を拠点に同道である利川(イチョン)や広州市(コウシュウシ)で労働者たちの弁護をしながら社会活動家となった。
又、スパイ容疑者の弁護等、左派同志の弁護も行う。
その後、城南市長(2010年〜2018年)を経て京畿道知事(2018年〜2021年)になったが、現在抱えている裁判はその頃の疑惑によるものが多い。
権力を持つとあらゆる欲望が集まってくるのは当然だし、今の地位に立つまでには表に出ていない毒も沢山呑んできただろう。
「デート暴力による重犯罪」
恋人とその母親を殺した自分の甥を心神喪失で弁護したことを
のちに謝罪した李在明の表現。
失言と思える言葉の多い男のようだ。
残虐な殺人事件をデート暴力と言い、遺族を怒らせるイ・ジェミョン。
北朝鮮や中国のスパイ、マフィアの棲む場所を軸にのし上がったイ・ジェミョン。
自分の兄を精神病院に送り込むイ・ジェミョン。
それでも、そんな彼にも多くの支持者がいる。
親北、親中、反日、反米の左派の人々、祖国統一を目指す人。
李在明と同じように学校にも通えず、貧困の中傷だらけになって働いていた元少年工。財閥や資本家への憎しみを育ててきた労働者たち、、
ベーシックインカム
李在明の政策のひとつ。
ある女子学生が語った言葉の中に一定数の若者の支持を集めている理由が分かる。
「李在明さんはもうアルバイトをしなくていいと、
夢を追ったり好きなことだけ出来るようになると言ってくれました。」
共産主義的ベーシックインカムは女子学生の望むものとはきっと違うだろうけれど、生活の心配などなく、夢だけ追いたいと思う気持ちは分からないでもない。
分からないでもないけれど、、甘えたこと言ってないで働けよ!とも思ってしまう^ ^
今後
尹 錫悦大統領の非常戒厳令後、明らかになってきた「共に民主党」の国政混乱行為や大統領代行の総理の弾劾、言論統制、法律を無視した行為が多くの国民の反感を買い、イジェミョンや共に民主党の支持率が下がり、内乱罪(その後職権濫用罪?)で拘束した大統領と与党「国民の力」の支持率が上がったことで、李在明が大統領になる目が薄まり、先に彼自身の裁判で有罪が確定する可能性も高まっている。
今後、誰を主役にどんな物語が作られるのでしょうか。
(城南市は裏通りはかなり錆びれたモーテルや古いアパートもあって情緒あり過ぎだけど、文化施設や公園、歴史的建物もあり、商店街やショッピングセンターを歩くのも楽しいので、現在の城南はおすすめ観光穴場です。
実はこの城南市の都市開発についても市長時代のあれこれ色々ありますがそれはまた。
(記事はwiki、世界日報より多分に引用してます)
李在明の自叙伝
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