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2024年の哲学対話の記録

ときどき、哲学対話というものをやっている。
出会ったのは大学1年生の秋で、いまは4年の終わりだから、もう丸3年は哲学対話をやっていることになるらしい。

去年、2023年の哲学対話の記録をかいてから、おどろくべきことにもう1年が過ぎた。いまでもまだ、わたしはときどき、哲学対話をしている。

哲学対話の記録をかくのは、いつも、すごくむずかしい。
なぜなら、わたしの対話の記憶は、いつだってわたしだけのものであって、あなたと分かち合うためにあるわけではないから。

おなじ場にいたひとであっても、おなじ対話を経験したひとであっても、恋人でも友達でも、たとえ家族であっても、わからないことがある。あのとき喉にひっかかって出てこなかった言葉や、思い出すたびにすり減っていく言葉、納得も消化もできなかったあの人の言葉や、口にしてから後悔した言葉、、、わたしには、わたしだけの対話の記憶がある。

それはとてもかなしくてさみしいことだけど、同時に、とてもうれしくてうつくしいことでもある。
だから今日は、2024年の対話のなかから、わたしの身体の経験した、忘れられない瞬間についてかこうと思う。

あなたとすべてを分かち合うことはできないけれど、それでも、対話のどこかでみたあのきらめきが、あなたの人生のどこかにあったきらめきと重なる瞬間があるのではないか、というわずかな希望を信じて。


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哲学対話とはなにか

知らない人のために、あらためて説明しておくと、哲学対話とは、「参加者が輪になって、問いについて一生懸命考えること」である。

哲学という名前がついているけれど、えらい哲学者やむずかしい哲学の話をするわけではなくて、ただ、普段は通り過ぎてしまうような問いの前で足をとめてみんなで少し考えてみること、自分一人ではたどり着けない答えをみんなと一緒に探しに行くこと、そういう取り組みのことを指す。

いつもそうだけど、わたしの説明だけでは心許ないと思うので、わたしのだいすきな定義をひとつひいておこう。

哲学対話とは、問いを中心に据え、そこに集まった人たちの経験や思考をもとに、 じっくり考え、ゆっくり話し、 聞き合うことを通して、 共に探究を深めていく活動のことである。

わたし自身は大学で哲学対話の研究しているわけではなくて、ただ先生たちの研究について学校での哲学対話に参加させてもらったり、たまに自分で哲学対話をひらいたりしているひとです。


1. 「完成とはなにか」という問い

2024年の哲学対話を振り返ってまっさきに思い出したのは、「完成とはなにか」という問いではじまった、新潟の美術館での対話だった。

よく晴れた秋の日だった。
その人の出した問いもその人の名前もその人の作った作品さえも、わたしはなにも覚えていないのだけど、一緒に対話した作家さんに、「娘に昨日の哲学対話について話したら、わたしもその人のグループで対話したかったと言われた」と、唐突に言われた。それから、「今日の対話でも、あの大勢のなかであなただけが、いちばん、自分の言葉で話そうとしているのだと思って感動した」と言われた。

言葉がでなかった。涙がでるほどうれしかった。

ファシリテーターは、すごく孤独だ。
その場にいるみんなが対話を望んでいるわけじゃないこともあるし、ファシリテーターの問いかけが受け取られずに捨てられてしまうこともある。質問ばかりしていやな顔をされることもあるし、話をひっくり返して白い目でみられることもある。

それでも、わたしたちがやろうとしていることに、ひとりでもがき苦しんでいることに、気づいてくれる人がいる。このひとはほんとうに哲学しようとしているのだと、わかってくれる人がいる。

哲学対話に参加する人のほとんどは、数回限りのイベントとして、あの時間を経験する。
だまっていれば時間がきておわりかもしれないし、ボールを渡されたときだけ適当に話しておわりかもしれない。なんかたのしかったなとか、つまんなかったなとか、カバンに手を突っ込めば取り出せそうなよくある感想だけがのこる。そして、きっとすぐに、今日のことを忘れてしまう。
あの数時間で、真理に立ち向かう途方もなさとか、ともに考えることもむずかしさとか、問いかけ続けることのむなしさにぶつかる人なんて、ほとんどいない。わたしたちにとってなにより大切で苦しい時間を、わかろうとする人や、おなじように経験してくれる人なんて、ほとんどいない。

でも、それでいい。
みんながわたしとおなじところに囚われていたら、世界はめちゃくちゃになってしまう。

もしかしたら、もしかしなくても、この言葉をかけてくれたあの人も、もうあの日の対話のことはなにも覚えていないかもしれないけど、それでもいいのだ。
ただわたしが、絶望するたびにあの日を思い出して、たしかにああいう瞬間もあったのだ、と思えることがうれしい。


2. 「お金で買えないものって何?」という問い

もうひとつ、去年を振り返ってよく思い出すのは、沖縄で中学生とした対話だ。このときの問いは、たしか、「お金で買えないものって何?」だった。

この日の対話については、すでに哲学対話日記というところに詳しく書いてしまったので、そこから読んでもらうしかないんだけど、「やられた!でも、やられてうれしい」という気持ちをなによりつよく覚えている。

斜に構えていた中学生たちが、対話に巻き込まれ、引き込まれ、たのしくなっちゃう瞬間を見るのがすきだ。対話のおもしろさに負けてつい手を挙げてしまう瞬間や、論破したと言わんばかりに鼻の穴をふくらませてこちらを見ている子が矛盾を指摘されて椅子からひっくり返る瞬間を見るのがだいすきだ。

世界のどうしようもなさに、わたしたちは等しく無力で、でもそこに一緒につかみかかっていくのがこんなにもたのしいのだ、と思った。


3. 「なぜ暗記パンに頼ってはいけないのか」という問い

去年の記録は、あの2つを書こうとすんなり決まったのに、今年はなかなか決まらず苦労した。そのあいだ、いろいろとノートを見返したり、スマホのフォルダを整理したりしていて見つけた問いがある。

2024年の5月から、恋人のたけしとポッドキャストをはじめた。読むてつがくがあるなら、聞くてつがくがあったっていいだろう、と思ってはじめた試みだった。実際、通学中の電車や部屋の掃除機をかける時間や、寝る前のうとうとするときなんかにきいてもらえているらしい。みんなの生活をてつがくが小さく揺るがしているということが、とてもうれしい。

「なぜ暗記パンに頼ってはいけないのか」という問いは、たけしと散歩しているときに思いついた。4月のちょっと明るい夜で、いつも通る交差点のピザ屋を曲がったあたりでこの話をして、きっとおもしろくなるからみんなにも聞いてもらいたいと思った。この問いならきっと、世界中に小さな問いがいくらでもころがっているということを、みんなにわかってもらえると思った。

哲学対話は、ふつう、その場限りであり、そのメンバー限りであり、その日限りのものだ。
声の届く範囲は限られている。わたしの言葉は、目の前にいる人たちのために飛び出してくるのであり、そこにいない誰かのために発されることはない。

でも、ポッドキャストを収録するとき、わたしたちは、ここにはいない誰かのために話す。顔も声も名前も、なにも知らない人のことを想像しながら、この言葉がどのように引き受けられるのか(あるいはそもそも引き受けられるのかさえ)わからないまま、問う。
わたしは部屋にひとりきりで、画面に映る恋人だけに向かって話しかけているけれど、でもそれと同時に、ここにいない誰かとともに考えていて、わたしはぜんぜんひとりじゃない。ひとりなのにむしろ、みんなと生きていることをつよく感じる。

それはうれしくもあるけれど、とても息苦しくて、不自由なことだと思った。


わたしが哲学対話をやっている理由

最初に、「ときどき、哲学対話というものをやっている」と書いた。
これには、ふたつの意味がある。

ひとつは、哲学対話はわたしのすべてではない、ということ。

わたしは、大学で哲学対話の研究をしているわけじゃないし、先生たちみたいに毎週のように哲学対話をしているわけでもない。丸3年を哲学対話に費やしてはいるけれど、これはべつにぜんぜん重大なことではなくて、「ここさいきん、前髪伸ばしてるんだよね」みたいな感じのこと。

哲学対話をしていることは、たしかにわたしの一部ではあるけど、すべてではないし、そんなに大きなことでもない。
それを、これを読んでいるあなたにも、そしてわたし自身にも、決して忘れてほしくなくて、いつもこういう書き方をするようにしています。

もうひとつは、わたしもまだ、哲学対話がなんなのかよくわかっていない、ということだ。

哲学対話は、わけがわからない。
大人が美術館の地べたに座って黙りこくってるのも、よくわからない名前を名乗って話しているのも、時間がきたら急におわっちゃうのも、ほんとうはすごく変だと思う。うーんっていいながら考えてたら椅子から落っこちそうになるのも、あたりまえが壊れて笑ってるのも、ぜんぶ。ほんとうは、わけがわからない。

でもそのわけのわからなさを、適当に言葉にまとめてしまわないこと。わからなさを、そのままに受け止めながら、わからないなあと思っていること。そこに勝手に期待したり、意味づけをしたり、価値づけをしたり、わかったようなふりをすることから距離をとること。
それがわたしなりの、哲学対話を大切にするやり方であり、哲学対話と誠実に関わろうとすることだと、いまは思っています。

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読書案内

毎度のことですが、哲学対話について知ったような口をきくのがこわいので、先生たちの本を貼っておきます。もっと知りたいと思った方がいればぜひ、わたしではなくこちらを参照していただけると幸いです。


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