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多様性はなぜ大切なのか
多様性はあなたのためにあるわけじゃないけど、でもやっぱり、あなたのためにある、と思う。
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はじめに
まえに、多様性は誰かの生きやすさのためにあるのに、自分はそれのせいでむしろ生きづらい、というような話をされたことがあって、
うーん、多様性ってあなたのためにあるものだったの?と思ったことを覚えている。
最近、みんながすごく簡単に多様性という言葉を使うし、多様性というひと言でなんでも解決できちゃうような雰囲気があるなあと思う。
多様性という茫漠とした言葉だけがみんなのなかにあって、でもそれがなんなのか本当はわかっていないような気がする。
わたし自身は、高校生のときにそういう問題についてすごく考えていた(悩んでいた?)時期があって、それ以来、哲学対話のトピックとしても、レポートのテーマとしても、形を変えながらさまざまに接点を持ってきた。
だから今日は、わたしがずっと考えてきた「だれのための多様性なのか」あるいは「なんのための多様性なのか」ということを改めて言葉にしてみることで、
あのときうまく言葉を返せなかったわたしのもやもやを成仏しつつ、みんなとこの問題について考えることができたらうれしいなと思っています。
(1)社会における多様性
多様性がだれかの生きづらさを解決するための言葉としてある、と考えている人が一定数いるらしい、ということに気づいたのは、ここ一年くらいのことだったと思う。
ポッドキャストやnoteをはじめてから、すこしずつ、多様性という言葉が自分を救ってくれないことを嘆くようなdmをもらったり、多様性という言葉に嫌悪感を抱いてしまうというようなコメントが届いたりするようになった。
うえにすこし書いたような内容のコメントは、たしか夏ごろにポッドキャストに送られてきていて、わたしはそれにこころがひやっとしてしまって、それ以来コメント欄は閉じるようにしよう、と思ったほどだった。
ジェンダーや、人種の問題、しょうがいの有無に関わるトピックで「多様性」という言葉を使うとき、そういう人たちはきっと、【その当事者が生きやすい社会にするため】や、【特定のマイノリティに居場所をつくってあげるため】、すなわち権利保障の意味で多様性が守られるべきだ、と考えている。
たしかにダイバーシティという言葉は、アメリカの公民権運動をきっかけに大きく広まり、人権尊重や機会均等といった文脈で使われてきた。
でも、やっぱりそれは、「あなたのためではない」とわたしは思う。
多様性という言葉が、だれかを救うためや、だれかを生きやすくするためにあるとしたら、多様性を認めたくない人も多様性として認めなきゃいけないのか?みたいなよくわからない議論(「だれか」と「あなた」が混ざってしまう)が発生してしまうから、なんだか変だなと思う。
多様性は、だれのためにあって、なんのために守られるべきものなのだろうか。
(2)企業における多様性
多様性という言葉は、人権保障の文脈よりもむしろ、企業内での利益をあげる手段のひとつとして語られ、広まってきた。
経営におけるダイバーシティの推進は、組織のパフォーマンスをあげることを目的としている。すなわち、組織内にさまざまな人がいることによってより良いアイデアが出るとか、イノベーションが起こるとか、生産性が上がるとか、ダイバーシティはそういうことを期待される言葉として使われてきた。
このとき、多様性が手段であるということを、わたし自身はずっと受け止められないまま生きてきた。
わたしは、多様性が手段になるとき、ほかのより良い手段が見つかれば多様性は守らなくても良いということになってしまうのが怖い。
たとえば、「男性のほうが遺伝子的に仕事ができるらしい」みたいなことが研究で証明されてしまったら、女性は会社にいないべきだ、ということになってしまうのだろうか。
パフォーマンスとか、生産性とか、そういうだれかが設定した目的に沿わない・貢献しないようなマイノリティは、ずっと居場所がないままで、多様性という言葉にすら掬い取られない存在になってしまうのだろうか。
「多様性」という言葉は、ときにそういう意味をふくんだものとして、わたしたちの目の前に立ち現れる。
(3)生物の多様性
それからもうひとつ、また別のニュアンスをもった「多様性」がある。
生物多様性、という言葉は、地球上のさまざまな生き物が歴史のなかでそれぞれに進化し、多様な生き物として存在していることを指し、それらが直接的・あるいは間接的に支え合っていることを説明するときに使われる。
このとき、多様性は、わたしたちみんながそのつながりにいるから、どこかが欠けることでまわりまわって自分にもマイナスな影響が出てしまうかもしれない、という論理によって、守られるべきものになる。
また同時に、多様性のある集団は、環境の変化に適応できる可能性が高い、という点においてプラスに評価されるべきだという考えもある。
*これについては、まえにポッドキャストですこし話したことがあるのでこちらもぜひ聞いてください↓
わたし自身は、一つ目の多様性や二つ目の多様性に出会うよりずっと前に、生物の先生からこの考えを教えてもらって、
なにかの手段ではない多様性・どのようなマイノリティでもかならず存在意義を保障される多様性という意味で、多様性という言葉を使ってきた。
それと同時に、多様性は美しいものでも優しいものでもなく、ときにとても厳しいものだ、と思ってきた。
望む望まないにかかわらず、わたし個人や人間という集団の損得にかかわらず、だれもを認めなければならない、というものとして、多様性という言葉がわたしのなかに存在していて、
だから「東京タワーと結婚したいセクシュアリティの人がいたらどうしよう」みたいなことを考えてしまう。
*多様性についての哲学対話の記録↓
おわりに
わたしは、多様性という言葉に、いろんな大人の思惑とか人々の気持ちとか、そういうものが含まれているように感じることが多い。
多様性という言葉でだれかが問題を解決しようとしたりスルーしたりするたびに、多様性という言葉の便利さを恨み、その問題の根深さを痛感する。
だれかが、あるいは特定の集団が、マイノリティが、なにかの手段として使われることを、いまのわたしは受け入れられないし、そういう意味でつかわれる「多様性」という言葉は好きじゃないなと思う。
でもそれが、権利として守られるべきだからなのか、同情や共感なのか、わたし自身がそのマイノリティに属していた場合のことを恐れてなのか、それはまだわからなくて、
【読書案内】
わたしのnoteを読むよりこれを読んだほうがいいんじゃないか、と書き終わってから思いました(かなしい)。
いろんなことを教えてくれた、わたしの生物の先生のおすすめの本(本とは)↓