哲学をやめてしまいたいとき
はじめに
まえに、考えるのをやめてしまいたいときはありますか、と聞かれて、「わたしは考えざるをえないから考えているのであって、考えたくて考えているわけじゃないので、やめたいとかはないと思う」みたいなことを答えてしまったんだけど、最近、でもやっぱり、わたしにも考えること(というより哲学)をおやすみしたいときはあるなと思うようになった。
マグロが泳ぎ続けていないと死んでしまうように、わたしも考え続けていないとたぶん死んでしまう。でもだからといって、「やめてしまいたいときがないわけではない」ということに最近気がついた。おそらく実際にはやめないんだけど、やめたい気持ちになることはあるし、もしかしたらその人はそれを知りたかったんじゃないか、と思って、今更ながらパソコンのまえに座っている。
あのときのあの人に、いつか届きますように。届いたらおしえてね。
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(ちょっぴり寄り道)
信じられないけれど、はじめに関係ない話を持ってきた。今日あったことをどうしても誰かに話したくて。
本題がはやく読みたい人は、目次から「はじめに」に飛んで一回読んだあと、最後にまたここ戻ってきてください(ぜったいに読んでほしい)!
今日、アルバイトに向かう道中、ひさしぶりに「うちゅう」をみた。
「うちゅう」は、わたしが勝手にそう呼んでいるだけなんだけど、きらきら光るアスファルトの道のことである。
よくあるふつうのグレーのアスファルトじゃなくて、ちょっと黒いアスファルトのなかに、ガラスみたいなきらきら光るなにかが入っているやつ。
あれの真ん中に立つとまるで宇宙にいるみたいなので、勝手に「うちゅう」と呼んでいる。
わたしがはじめて「うちゅう」をみたのは、大学1年生の頃に住んでいたアパートのちかく、ちいさなラーメン屋さんのある交差点のところだった。
そこの「うちゅう」は、昼間にはあまり光らなくて、でも夜になって周りが暗くなるとすごくきらきらする宇宙だった。わたしはその「うちゅう」がすごく好きで、みるたびになんだか、わたしも一つの星になったような気がして、すてきだった。
そして今日、そのとき以来、たぶんもう2年くらい経っていると思うんだけど、そのラーメン屋の「うちゅう」以来はじめて、別の「うちゅう」をみた。
その「うちゅう」は、三日に一回くらい通っているアルバイト先の近くにあった。ちいさなクリーニング屋さんの前にある、三又の交差点のところ。もう何百回も通っているであろう道なのに、いままで一度もみたことがなくて、今日はじめて気づいてびっくりして、すごくうれしくなった。
クリーニング屋さんの「うちゅう」は、今日、13時の光を浴びてきらきら光っていて、すごくきれいだった。はじめて狐の嫁入りを見たときとおんなじ気持ちになった(覚えてないけど、たぶんおなじ)。
今日はすごくいい日だな、と思って、ホクホクした気持ちになった。それで、みんなに「うちゅう」のことを教えよう、と思った。
みんなの住んでいる街には、「うちゅう」はあるのかな。あってほしいな。
*いま書きながら調べてみたら、「うちゅう」はカレット舗装というらしい。ちなみに、きらきら光るやつは、ほんとうにガラスだった。ぜんぜん宇宙じゃなかった。
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◆わたしのいつも考えていること
わたしの問いは、たぶん前にもどこかで話したことがあると思うけど、なぜかいつも、かなしみや怒りからやってくる。
わたしの周りを見ていると、どうやらみんながそうというわけではないらしいので普遍的な話ではないとは思うんだけど、とにかく、わたしの場合はそう。
だから必然的に、わたしはいつもかなしみや怒りからくる問いについて考えている。考えるためには、そういう気持ちをある程度剥がさないといけないとはいえ、それでもやっぱり、いつもかなしみや怒りのそばにいることはつらいし、簡単ではない。
その点において、考えること・考え続けることは、わたしにとっても全然イージーなことではないし、こころの中のわたしが「やめちゃいたいかも!」と言ってくることもある、と思う。
でもわたしにとっては、それは厳密には「考えるのをやめてしまいたい」という状態ではない。
かなしみとか怒りからくる切実な問いは、わたしにとっては避けては通れない問題というか、そこから目を背けても一生影のようにわたしについてまわるもので、わたしはそれを痛いほど知っている。それを知っているからこそ、むしろ向き合わないでなかったことにすることや、思考停止して自分の気持ちを放置しておくことのほうがもっとずっとくるしい。
だからこれは、わたしにとっては「考えるのをやめてしまうことはできないし、やめたいわけでもない」という状態になる。
これが、あのとき「わたしは考えざるをえないから考えているのであって、考えたくて考えているわけじゃないので、やめたいとかはないと思う」みたいなことを答えてしまったときにわたしが考えていたことで、もちろん、その気持ちはいまもおなじ。
◆考えることと哲学すること
でもさいきん、考えるのをやめたいというか、哲学をやめたいときはあるかも、と思うようになった。
考えることと、哲学することが、どのくらい・なにがちがうのかといわれると、まだわたしにもよくわからなくてなんともいえないんだけど、「考えすぎちゃう人であることは大丈夫なんだけど、哲学者であることがたまにつらい」みたいな感じがいまの自分をぴったり言い表しているなあと思う。
*もちろん、わたしはぜんぜん「哲学者」と名乗れるようなことはしていないことだけは断っておきたい。哲学(を学んでいる、ひよっこのさらに前のたまごになりかけくらいの)者、を縮めたと思って読んでもらえると気が楽なのだけど、とにかく、哲学する人をざっくり「哲学者」と呼ぶことにすると、哲学者であることをやめたいときがある、という意味。
年末くらいから、卒論を書き終えて一山越えたからなのか、メンタルがボロボロだからなのかはわからないけど、哲学おやすみしたい!!!とおもう瞬間がけっこうあって、これがあのとき聞かれていたことなのかもしれない、と思うようになった。
「考える」には、すごくいろんな方向性や形式があって、「今日のお洋服なににしようか考える」とか「おいしい餃子を作る工夫を考える」みたいな使い方ができる、大きめの言葉だと思う反面、
「哲学する」って、ある程度限定的というか、考えるのうちの一種であるイメージがわたしにはあって、やらなきゃいけないこと・おさえるべきことがいっぱいあるなあと感じたりする。
それから、「考えすぎちゃう人」だと、なんだか「つい考えちゃう」という感じで、その人が考えすぎてないときがあってもそんなにおかしくないし、つまんないこと・どうでもいいことを考えていたっていいじゃない、と思えるけど、
「哲学者」が哲学的でない発言とか行動をするとなんだか変だなって思っちゃうし、すきなところで適当に切り上げてしまうのはだめじゃない?と思ってしまったりする(ぜんぶ、勝手なわたしの意見だけど)。
考えることと哲学することをざっくりそんなふうに分けてみたとき、わたしには哲学者でいることをやめたいときがけっこうあった。
◆哲学にうんざりする①
哲学者なのに、哲学的でない言動をすることって、許されるのかな。
許されるって誰に許されるんだろうとか、許されるってなんだよとかいろいろ考えないといけないことがあるのにちょっとうんざりしつつ(まさにこれも、哲学にうんざりしてる瞬間)、勇気をもってわたしの個人的な気持ちをいうと、それって変だと思う!
わたしは、哲学者には哲学的であってほしい。哲学的であってほしいというか、自分の思想や信条(というかはっきりいえば哲学)に反することはしないでほしい、と思っている。
でもそれを自分に適応すると、いつも哲学者でいることは、ほんとうにつらいことだと思う。
たとえば、ちょっと前に「想像力のバネを信じる」という文章を書いた。
ざっくりいうと、いつも・どんなときも、だれにでも、想像力をはたらかせて、「かもしれない」と考えてみたい、と書いたのだけど、でもそれって、現実的に考えたら、すごくすごくつらいことだ、と思う。
おじさんがぶつかってきたとか、歩きスマホのひとが進路を妨害してきたとか、バイトの昨日の締め作業が適当だとか、一つ一つは小さなことでも、たとえばそれが生理前とか、ぜんぶ積み重なったときとか、徹夜明けの日とかになってくると、「哲学者やめたいかも・・・」という気持ちになってしまう。
わたしはぜんぜん哲学者なんて名乗れるほどじゃないけど(二回目)、こんなひよっこでもわかる、いつも自分の哲学に従うことや、正しいとおもう行動をとり続けるのって、なんてむずかしいんだろう。
◆哲学にうんざりする②
もうひとつ、哲学者でいることをやめたくなる瞬間がある。
ソクラテスというすごく昔の哲学者がいるのだけど、彼は道ゆく人に哲学的な問いを投げかけて、卑屈と思われるようなネチネチした返しをたくさんして、嫌われていたという。
哲学対話をするときとか、哲学的な話をしないといけないときには、わたしもたくさん質問をするし、ひねくれているといわれそうなことばかり言わないといけない。
相手をいやな気持ちにさせたいわけじゃないし、わたしがもっとうまくやれたらいいのだろうと思うけれど、「それってどういうことですか?」とか「でも考えてみると・・・」とかいうたびに、わたしもソクラテスみたいにネチネチしてると思われるだろうなあ、と思って自分でもうんざりしてしまう。
ついこの間も、知り合いの女の子に生きている意味について問われたので一生懸命考えて話していたら、「むずかしいこと言わないで!そんなこと聞かれてもわからない!」と言われてしまって、こころの中でめそめそしてしまった。つらい。
そんなときに、今だけ、なんの注釈もつけずに、検討もせずに、問わずに、相手の言ったことを受け取ってしまえたらいいのに!と思う。あるいは、適当に相槌を打って、「まあそんな感じかもね」とか言っちゃえたらいいのに。
好かれたいわけじゃないけど、もちろん嫌われたいわけじゃないし、単純に自分でもつかれちゃうし、だからそんなときに「自分が哲学者じゃなければいいのに!」と思ってしまう(何度でも断ると、わたしは自分のことをぜんぜん哲学者だとは思っていない)。
おわりに
考えるのをやめてしまいたいときはありますか、といまのわたしが聞かれたら、たまに哲学をやめてしまいたい気持ちでいっぱいになることがあります、と答えると思う。
でもやっぱり、やめてしまったらそれはわたしではなくなってしまうし、わたしはわたしでいられないだろうから、せめて「おやすみ」くらいに留めておきたいと思います。ソクラテスにも、哲学おやすみしたい気持ちはあったのかなあ。