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想像力のバネを信じる

わたしたちはなぜ、だれかをラベリングしてしまうのだろうか。

これは、わたしと同じゼミのひとが書いていた卒論のテーマで、今年1年間くりかえし話を聞くうちに、すこしずつわたしの感じ方が変化してきたように思う。

はじめに

彼女は、知り合いから言われた「わたしADHDだから」という言葉と、そう言われると仕方ないのかもしれないと思って納得してしまう自分につよい罪悪感をもったことがあり、ラベリングを卒論のテーマにしたと教えてくれた。

わたしは、はじめてこの話を聞いたときに、「ADHDだから」という言葉に納得してしまう彼女は、だれかを簡単な言葉でひとかたまりにして、型にはめて理解したような気になっているだけじゃないのか、と思った。

でもこの1年間をかけて、すこしずつ、彼女がどのように世界を受け取っているのかがわかるようになってきたと思うし、こういうふうにだれかと共に生きていこうとしている人がいるのだと知ることができた。と思う。

今回は、この1年を通して、わたしが「だれかをラベリングすること」について考えたことを書いてみようと思います。
これを読んだだれかが、ちょっとでもやさしい気持ちになってくれたらうれしいです。

わたしは、世界をいいところだと信じていたいし、やさしい人たちがいると信じていたいんだろうな。


***

1. ラベリングとはなにか

まず、「ラベリング」という言葉についてすこしだけ、わたしなりに説明するところからはじめようと思います。
*わたしもここはそんなに詳しくないので、気になる方はちゃんと本を読んで勉強してくれるとうれしい

ラベリングとは、ジャムの瓶にラベルを貼るように、事物に名前をつけて判別できるようにすること。
分野としては、哲学というよりは心理学の分野で一般的に用いられる用語のようです。

たとえば、「あのひとはADHDだから」みたいな言葉とか、MBTIに当てはめて「このひとは〇〇だから」という言葉にみられるように、
だれかを分類してそれに名前をつけて、ほかと区別してわかるようにする、みたいなことを指します。

ジャムの例からわかるように、ラベリングすること自体は、わたしたちの生活をスムーズにするためには必要なことで、それなしに人と関わることはきっとすごくむずかしい。
だから、ラベリング自体は悪いことじゃないのだろうな、とわたしは思う。

ただ、このラベリングが決めつけや偏見と結びついてしまったとき、「レッテルを貼る」という言葉に変わってしまうように、ラベリングという行為になんらかの悪さが生まれるのかもしれない。


2. だれかをラベリングすること

彼女と出会うまえまではずっと、わたしは自分がだれかをラベリングしちゃうことにつよい罪悪感をもっていた。

そのひとをそのままに受け止めなければならないという気持ちにいつも押しつぶされそうで、だれかを属性で見ることや集団に名前をつけることにおびえていたのだと思う。
だからわたしは、(上にもすこし書いたように)相手を型にはめて理解した気になるのはほんとうの理解ではないし、ラベリングすることは思考停止なのだと思い込んでいた。

彼女の話を聞くようになって、ここ数ヶ月いろんなことを考えた結果、最近は、ラベリングするひとたちは、相手について想像するための足がかりを得ようとしているのかもしれない、と思うようになった。
すくなくとも彼女は、話を聞くかぎり、そういう方法で世界と関わろうとしているらしい。

それを、わたしは勝手に、こころの中で「想像力のバネ」と呼んでいる。

ラベリングするというのは、わたしの中には今までなかったやり方だけど、それは相手のことを想像しはじめようとする、その人なりのやさしさなのかもしれない、と思う。


3. だれかにラベリングされること

ラベリングに関連して、最近よく考えることがある。

自己紹介でMBTIを尋ねるひとが嫌いだ、という声をよく聞く。
それでなにがわかるの?と思うのと、型にはめられているようでいやな気分になるらしい。

彼女と出会うまえのわたしだったら、きっとおなじようにうんざりした気持ちになっていただろうと思うけど、最近のわたしは、ふたつの点で、そのひとはやさしい(かもしれない!)と思うようになった。

ひとつは、聞かれたくないことに踏み込まず、でもお互いを知るための第一歩として、質問をしようとしてくれているのかもしれないから。

わたしたちは意外に多くの地雷を互いに抱えていて、相手を傷つけずに、不快にさせずに会話することはとてもむずかしいことだと思う。たとえば、彼女いる?とか、家族構成とか、あとはごくありふれた愚痴や文句でも、とにかくなんでも、相手を傷つけたり嫌な思いをさせてしまったりする可能性をもっている。

そのことを知っているひとが、相手をできるだけ傷つけないように、個人情報でもなく地雷でもなく、あたりさわりないことを、でも相手を知るための第一歩としての質問を一生懸命考えて手渡してくれているのかもしれない、と思うと、この人はやさしい(かもしれない!)と思えてくる。

もうひとつは、そのひとが、まさに「想像力のバネ」を使おうとしているのかもしれないから。

そのひとは、MBTIを足がかりにして、そこから想像力のバネを働かせることで、相手について知ろうと考えているのかもしれない。そこで終わるのではなく、次に踏み込むためのバネを使おうとしているのかもしれない。

MBTIをきいておわり、だと思い込んでいたのは、わたしの方だったのか、と思う。
それだけでジャッジされてしまうことはいまでもこわいけど、相手の想像力のバネを信じず、その可能性をへし折ってしまうことはもっとこわい。だからわたしは、相手の想像力のバネを信じる勇気をもつことにしてみよう、と思う。

それから、自己紹介でMBTIを尋ねるひとはつまらない!と決めつけてしまう捉え方こそ、相手を型にはめて簡単にラベリングしようとしているのではないか、とも思う。
相手のやさしさや、可能性や、「かもしれない」を信じるような人になりたいと、彼女に出会ってあらためて思うようになった。

***

おわりに

ラベリングに関連して、最近は、「ヘルプマークをつけるひとが増えたのは良いことか?」という問いについてぼんやり考えています。

ヘルプマークって、まさにラベリングというか、「ヘルプが必要なひとです」というラベルを貼っているのだと思うんだけど、それによって良いことも悪いことも起きているんじゃないかな、と思ったりする。

それから、相手のやさしさや可能性や「かもしれない」を信じるような人になりたい、というのは、ラベリングにかぎらず、どんなときでもそうだなあと思う。

たとえばわたしは、エスカレーターを駆け上がるひとがわたしにぶつかってきて腹がたつとき、ぐっとのみこんで、相手になにかあるのかもしれないとまず想像できる人でありたい。
想像の余地がない、と思ってしまうようなひとやシチュエーションに対して、「かもしれない」をどれだけ思いつけるかが、人間としての深みなんじゃないかと考えたりする。



【読書案内】

いまは学生最後の冬休みでおばあちゃんのおうちにいます。
せっかくなので、今回の帰省で一緒に持ってきた本たちを紹介↓


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