大学4年生、冬
珈琲贔屓な大学4年生でしたが、冬になってからはそば茶ばかり飲んでいます。自販機にあるつめたいペットボトルのそば茶もいいけど、おうちで淹れるあったかいそば茶が特においしい🍵ごくごく飲めます!
大学4年生、冬
大学4年生の冬、わたしが最近考えていることをぽつぽつと書きました。
冬、わたしのいちばん好きな(好きだった)季節。さいきんは寒くてパソコンを打つ手が動かなくなるので、やっぱりあんまり好きじゃないかも、と思っています。
前回のわたしが、「その頃のわたしが、お気に入りのマフラーを巻いて、自分で編んだ帽子をかぶって、気持ちだけでもぽかぽかでいますように。」という素敵なパスを投げてくれているのだけど、心も身体もぜんぜんぽかぽかしてない問いばかり出してしまった。
いつも通り、問いの芽が育つのには時間がかかると思うので、一緒にのんびり見守ってくれる方がいてくれたらうれしいです。今日も読んでくれてありがとう。
ちなみに、前回はこちら。
① 「当事者になる」とはどういうことか
秋学期に受けていた授業で、ナガサキの被爆者の語りが扱われていた。
廣瀬さんの「被爆者になる」ということばと、コメントペーパーのなかにあった「当事者がいるのではなく、当事者性を引き受ける人がいるだけ」ということばがすごく気にかかって、それからずっとそのことを考えている。
わたしは自分の経験をもとに、卒論で「ヤングケアラーとしてまなざされる」ことについて書いて、当事者って誰のことなんだろう、とその間もずっと考えていたんだけど、この授業を受けてから、「誰のことなのか」という問い自体がまちがっていたのかもしれない、と思うようになった。
当事者っていうことばはからっぽで、そのことばで最初から名指される人はどこにもいないんだけど、「それはわたしのことなのかもしれない」と思うことでその問題を引き受けようとすること・表出させようとすることを通して、当事者になっていくんじゃないか、と想像する。
でも、そうだとしたら、いったい誰が「当事者になる」のだろう、と思う。どのような性質や要素や、なにが、そのひとに当事者性を引き受けさせるんだろう。
わたし自身のことを考えてみれば、おそらくわたしは「当事者性を引き受けやすい」タイプのような気がする。なんというか、理屈ではなく、直感的にこれはわたしの問題でもある、と思ってしまいがちなところがあるから。
でも、そうはいいつつ、わたしが水俣病を自分に引き寄せて考えるようになったのは、熊本にいた中高時代ではなく、大学生になってからだった、ということを思い出す。
大学1年生のとき、また別の授業で、石牟田美智子さんの『苦界浄土』を読んだ。大講義室のなかで、ただ1人わたしだけが熊本弁を話せる(だれも方言の朗読ができなかった)ことに気づいた瞬間、水俣病という問題群がわたしをめがけて接近してくるのを感じた。
だからやっぱり、問題との物理的な近さとか関係の深さだけじゃなくて、なにかタイミングとか、その人の世界とのかかわりの経験とか、そういうものによってわたしたちは「当事者になる」ことがあるんじゃないか、と思う。
② 「卒論は重要じゃない」は、ほんとうか?
先日、美大生の友人の卒展を見に行った。一日では回りきれないほどの作品が敷地いっぱいを使って展示されていて、すごくたくさんの人がいて、改めておどろいた。美大ってすごい、わたしの知っている大学とはぜんぜんちがう。
美大の卒展自体ははじめてじゃないはずなんだけど、不意に、なぜ美大生は卒展でみんなに広く作品を見てもらう機会があるのに、わたしたちの研究はそうじゃないんだろう、と思った。
わたしは、だれかに読んでもらうために卒論を書いた。(力不足であるという指摘はもちろん正当なんだけど)哲学やケアや、ヤングケアラーの研究に貢献したい、と思って一生懸命に書いた。
それなのに、わたしの卒論は、卒業研究は、このままだと研究室に閉じ込められて誰の目にも触れないまま古びていく。それって、すごくかなしい。どうしてわたしたちの卒論は、こんなにも他者に読まれる可能性からとじられているんだろう。
なぜ卒論は製本されたりアップロードされたりしないのか、どうしても納得できなくてパソコンとにらめっこしていたら、あるとき、「学部生の書いた卒論には価値がない」とか「卒論レベルでは重要なものなんてほとんどない」という主張を見つけてしまった。
美大生の卒業制作は価値があって重要だけど、わたしたちの卒論は価値がなくて重要じゃないから、外に出る機会がないんだろうか?と思って、落ち込んだ。
でもほんとうに、わたしたちの卒論って重要じゃないのかな。ほんとうに、外に出す価値がないものなのかな。
わたしは、美大生の作品にその価値があって、わたしたちの卒論にその価値がない、とはどうしても思えなくて(なにがちがうのかまだわからない)、しばらくこの問いにもぞもぞしています。
*でもやっぱり抵抗したいから、わたしは自分の卒論をなにかしらの形で公開しようと思っています!
③ 「信じてるよ」と言われるのがこわいのはどうしてか
一月のゆるっと哲学対話で、えんとつ町のプペルを題材にみんなと哲学対話をした。1回目も2回目もたまたま「信じる」に関する問いで(絵本のテーマだからかな)、信じることについて最近ずっとぐるぐるしているんだけど、対話のいちばん最後に誰かが言ってくれた「信じてるよ、とだれかに言われたらぼくはけっこう怖いかもしれない」という一言がすごく印象に残っていて、今日も一日そのことを考えていた。
わたしは今日もバイトがあって(先週は「うちゅう」をみたけど、きょうは曇りできらきらしてなかった)子どもたちと一緒に勉強をしていたんだけど、不意に「わたしたちはちゃんすのこと、すっごく信じてるんだからね!」と言われて、おお、まさにこれか、と思った。
たしかに、言われてみると、うれしいとかありがとうとかよりも先に、なんで?と思ってしまったし、それがもし「期待している」という意味だとしたら、わたしもけっこうこわいかも、と思った。
信頼されていること自体はもちろんすごくうれしいんだけど、なんだろう、わたしはそのひとの「信じている」世界を壊さないためにこれから行動しなくちゃいけないんだろうか、と思って呆然としてしまったというか、信じられることに自分がとても耐えきれない感じがして、おお、これはこわい!と思った。
考えてみれば、わたしは、みなさまからいただく「いつも読んでいます!」とか「つぎも楽しみに待ってます」みたいなメッセージも、「あなたの思考や文章のクオリティを信じています」という意味で受け取って、たまにすごくこわくなってしまうときがある。
これまでの道のりを評価してそう言ってくれているのだとしても、それがそのまま続くという保障はないし、ある日突然だめになってしまうかもしれない。わたし自身がそんなふうに自分に怯えていて、じゅうぶんに自分を信じることができていないからこそ、他者がわたしのなにかしらを信じているということがこわいのかもしれない。
でもたとえば、自分で自分を信じていることもこわいのかな。どうなんだろう。もうちょっと考えてみたい。
おわりに
大学生シリーズ(四季)がこれで完成して、なんともいえない感慨深い気持ちです。卒論を書いてからどうにも、短いと情報量が少ないんじゃないかと不安になる病におかされています。ちびちび読んでくださるとうれしいです。
次回からは社会人1年生シリーズとして、この四季の記録はきちんと引き継ごうと思っています!これからもよければ、わたしと一緒に季節をめぐってください🌸
読書案内
今回は、最近読んだ本と、最近読んでよかったnote。
これはまえにわたしが入っていたサークルのnoteなんだけど、最近よんだら活動後のインタビューがすごくよくて、ぐっときたので載せておきます。なんかここ数週間、ひとの話を聞くのとかインタビューとかがたのしいゾーンにいる。
わたしはずっとひとりで考えるのが好きだったし、あまり他人に関心をもてないまま生きてきたんだけど、ここへきてそれが変わりつつあるのが不思議ですごくおもしろい気持ちです。
さいごに。
不意に、ほんとうになんの気もなく、自分の過去のnoteを読みはじめたらなんだかすごく、すごくよくて、涙がでてきたので載せておきます。このひとはこの瞬間をたしかに生きてたんだなあと思ってうれしかったし、読んでいてあのときのことをきちんと思い出せることに感動した。
書いていてよかったと思う瞬間が、こんなふうにたまにくるので、わたしは毎週へとへとになりながらnoteを書いているんだなあと思いました。