「いっしょに考える」がむずかしい
十二月の哲学対話のために、小さな小さなジンをつくりました。
このたび、申込ページを更新し、あたらしく当日の哲学対話の様子と、わたしの感想を載せていますので、よければこちらも読んでください⛄️
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今回は、そのジンから一部を抜粋し、ショートエッセイ「いっしょに考える」がむずかしい、を掲載します。
*ジンは当日の参加者に配布したほか、数量限定でお手紙として販売した関係で、このエッセイも途中から有料とさせていただいております。あらかじめご了承ください。
哲学対話ってやっぱりむずかしいし、こわいし、ぽつーんとすることあるよね、という気持ちを込めて書きました。
哲学対話おわりのちょっぴり苦しい時間のお供になれればうれしいです。
2024年12月16日
「ちゃんすからのおてがみ」より
はじめて哲学対話をしたときに、誰かと「いっしょに考える」ってなんてむずかしいんだ、と思ったことを、わたしは今でも覚えている。
毎週の哲学対話の授業がくるたびに、気合を入れて教室に入って、終わったらベンチでぐったりして、帰り道にすこし泣いて、そして3回に1回くらいは授業を休んでいた。
それくらい、わたしは誰かと「いっしょに考える」ということが苦手だと思う。
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わたしはいつも、哲学対話に参加するとき、大きな川の流れに逆らって、流されないように、ひとりで必死に踏ん張っている、というかんじがする。
みんなの話がどんどん進んでいって、わたしはこっちが気になるのにどうしよう!と思ったり、いつ手を挙げて話せばいいのかわからなくてモゴモゴしてしまったり、話すための言葉を選んでいたらもうみんなが違うところへ行ってしまっていたり、、、そういうことがたくさんあって、「いっしょに考える」ってなんてむずかしいんだろう!と思う。
あるいは、混雑した駅のまんなかで、行き交う人たちのなか、わたしだけが立ち止まって動けない、というかんじがすることもある。
みんなの意見があっちこっちに行き交っているとき、わたしはそのどれを捕まえて点検すればいいのかさっぱりわからなくて途方に暮れてしまう。わたしだけが取り残されて、ひとりぼっちのままで、さみしい。「いっしょに考える」ってなんてむずかしいんだろう、と思う。
はじめて哲学対話をした日から、もうすぐ3年が経とうとしている。いまだにわたしは、対話のなかでもみくちゃにされて、ぼろぼろになって、やっぱり「いっしょに考える」ってなんてむずかしいんだろう、と思ってばかりだ。
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それなのになぜ、わたしは誰かと「いっしょに考える」ことに、めげずに取り組み続けているのだろう。なぜこんなにも、「いっしょに考える」ことはむずかしいんだろう。
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