「書く」は筋トレだ

12月がはじまった。
寒くてもお天気がいいだけで良い日になる気がする。

夫が昼に作ってくれたラーメンがとても美味しかったから
正直に感想を述べたら、「この間買った、ちょっといい袋麺だよ」と教えてくれたので
「ちょっとお値段が高くなるだけで、こんなに美味しいんだ…?!」と感動しながらいただいていたんだけど、
話しているうちに、夫が具材にアレンジを加えていることがわかり
「いやいや、美味しいの、そのアレンジのせいじゃん!」となった。

自分の加えたアレンジによって、美味しい美味しいと喜んでいる相手に、
自分の加えたアレンジを、説明も自慢もしないだなんて…
わたしなら、相手が麺を啜る前から、
ドヤ顔で自分の珠玉のアレンジについて打ち明けてしまいそうなのに。

夫のかけてくれている手間暇は、本人からアピールされることがない。
だからこそわたしは絶対に見逃したくない…!
当たり前のようにかけてくれている優しさや愛情を、受け取り損ねたくない。


わたしはこのnoteだけではなく、別媒体にもアウトプットを書いている。
今日はすごく私的な感情をアウトプットしたのだけど、
書き終えた後から、ものすごくドキドキしている。

あんな偏った意見を、私的な感情を、他人に見せてしまってよかったのだろうか。
そもそもあんなに偉そうに言える立場なのか、わたしは。
あれは誰かを傷つけたり、気分を害するような内容にはなっていなかったか?
時間を割いて読んでくれる読み手にとって、メリットのある文章になっていただろうか……

後から後から、自問自答が湧き出てくる。

つい、誰も傷つけない、独りよがりにならない、中立で正しい文章を書かなければならないと思ってしまう。
…が、その度に思い出すようにしている。
本当の正しさなどはなく、本当の中立などもない。
正解などないのだ。
わたしはわたしの持った感想、感覚、感情を扱うことしかできない。
それをアウトプットすることしか、所詮は出来ない。

絶対正解の論理なんかない。
こうすれば間違いない…なんてものもない。
目指すべき姿なんてものも、ない。

偏りがあって、多少歪で、非常に私的で。
だからこそ唯一無二で、表に出される意味があるのだ。
わたしも、あの人もこの人もみな、偏っているからこそ、
それらが集まって並んだときに、価値を持つ。
違っていて良い。ズレていていい。正しさなんて見当たらなくていい。
だから今日もわたしは書けるのだ。


最初、このnoteを始めたころは、
どんな媒体にしろ自分の意見を文章にして書く体力すらなくなっていた。
なんて書けばいいのか、何を書いてもダメな気がしていた。
だけど、この数ヶ月間、noteで毎日私的な文章を書き続け、
そのうち別媒体でもアウトプットするだけの基礎体力がつき、
多い日は1日に3本ほど文章を書けるようになった。

本当に、練習すれば体力って付くんだな…
文章を書く力は、筋力と同じなのだ。
「書く」ことへのハードルがグッと下がったここ最近を思い、本当に感覚が変わったと感動した。

まだ上達した気はしないけれど、
もっといいものを書けたらいいなと思う。
読んでよかったな、と思ってもらえるような文章を。
これからも続けていくぞ。


また書くね!
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