決戦! 長篠の戦い その15
引き続き「武田勝頼」より引用。
『天正二年(1574年)六月十九日、信長は今切の渡し場まで来たところで、高天神城が落ちたという知らせを受けた。
「そうか、落ちたか。残念なことをした」
信長は口ではそう言ったが内心ではほっとしていた。実はその知らせを受ける前に、ほぼこの日あたりに落城することを知っていた。落城を見越しての行軍は徳川家康に対する義理立てだった。徳川家康が強大になることは欲してはいなかったが、将来とも、家康が信長の楯としての存在であることは強く期待していた。その楯に傷つかせたり失望させたりしたくはなかった。
信長には勝頼を総大将とする武田軍とまともに衝突して勝てるという自信はなかった。織田の総力と徳川の総力を挙げて向かえば、数の上では有利だが、いざ合戦となれば、その結果がどうなるか全く分からなかった。もし万一負けたらと考えるとうっかり手出しはできない。信長は機を見るに敏な男だった。敵の隙を見たら遠慮なく突き込んで行って勝利を収めたが、その時が来るまではじっとしていた。短気な男と一概には言えない、神経質なほど思慮遠謀型の武将の反面があった。
今切の渡しで高天神城落城を聞くと信長は全軍に退却を明示、吉田へ引き返して吉田城の城主酒井忠次と会った。
忠次はこの足で岐阜に帰るという信長を引き止めて言った。
「間もなく浜松からお館様も御挨拶にお見えのことと存じますればおゆるりとなさいませ」
家康へは早馬をやって、信長が吉田城へ入ったことを告げた。
家康は信長に言いたいことが山ほどあった。あれほど何回も出兵を頼んだのに、なんだかんだと言って出兵を遅らせ、落城してからやっと来たところでどうにもしようがないではないかと不平を言いたかった。しかし、それは家康の心の中のことであって、いざ信長と会った家康は、
「遠路わざわざお出でを願いましたのに、高天神城を敵の手に渡してしまい、まことに申しわけない次第です」
と低く出た。高天神城を失った責任はすべて家康にあるかのごとき言い方だった。家康にそう低く出られると信長も、高い調子でものが言えなくなった。
「まあよいではないか、城の一つや二つのこと、そう気にかけることはあるまい。本気になって取り返そうと思えば何時なりとも取り返すことができる」
信長はそう言って家康をなぐさめた。家康が信長の不信行為を責めなかったから、信長もまた、援軍を遅らせた理由について、いちいちこまかい言い訳の必要がなかったのである。
それからの二人は高天神城のことも武田のことも語らず、茶や能の話にふけったあとで、酒宴になった。
酒宴半ばにして信長が、
「そうそう、忘れていたことがある。いま思い出した・・・・・」
とひとりごとを言った。
そして、革袋が家康の前に運ばれ、袋の口が開かれた。中から出て来たのは目をあざむくばかりの金貨であった。人々は声を飲み込んで、その黄金の山を見つめた。
黄金の山は、家康の面前にうず高く盛り上げられた。
「まことに粗末な土産物だが受け取ってはくれぬか、な、徳川殿」
という信長の声に家康は、はっと我に返った。
「忠次、そちからも、徳川殿に、その粗末な土産物を受け取るよう、口添えをしてくれ」
その声で酒井忠次もまた自分を取り戻していた。家康にしても忠次にしても、それほど多量な金貨を見たことがなかった。それが何万両になるのか見当もつかなかった。これほどの大金をなぜ信長が家康に与えようとするのだろうか。そこまで考えて二人はどうやら、完全に自分を取り戻していた。
「このお見事なる黄金の山二つ、有難く頂戴いたします」
と家康は挨拶した。その声はややふるえていた。
家康は、信長の心を知った。
その金貨は高天神城の代価であった。
(高天神城を救援できなかったかわりに、これだけの金貨をやろう。これで、そっちは損得なしということになるだろう。家康、これでいいのだな)
と信長に言われているようだった。
物質的な信長の考え方が家康の心の隅にかちんと当たった。金銭で処理しようとするやり方が気に食わなかった。しかし、今それをちょっとでも口に出したら、たいへんなことになる。家康は、心の中のものをすべて押さえつけて、怒りを喜びの色に塗りかえて、
「これほどたくさんの金貨は見たことがない。のう忠次、そちも見たことはあるまい」
と言いながら、両手で金貨を掬(すく)いあげてはこぼし、掬い上げてはこぼしながら、満悦そのものの顔で座りこんでいた。
信長は、高天神城を奪った勝頼は意気揚々と凱旋し、しばらくは出て来ないだろうと見た。武田が動かぬという仮定のもとで、信長はかねてから気になっていた、長島征伐を実行しようとしたのである。高天神城へ援兵を向けられなかったのも、一つには長島の存在だった。長島に入り込んでいる真田昌幸が、本願寺派兵団を率いて、積極的行動を起こした場合のことを考慮したからであった。が、武田軍は引き揚げにかかっている。やるならば今だ。信長はそう思った。
「とうとう信長は長島攻撃を始めたのか」
武田の諸将は呆然となった。まさか、そんなに早いとは思わなかった。信長が今切で高天神城が落ちたことを聞いたのは六月十九日である。十九日には吉田城へ引き返して泊り、岐阜城へ帰ったのは二十一日である。ところが二十三日には長島攻撃の先頭に立っているということは、岐阜城へは帰らず、今切からの帰途、その兵力をそのまま長島へ向けたと見るべきだった。
身延(みのぶ…山梨県)にほど近いところで軍議が開かれた。
「こうなると高天神城救援と見せかけ実は長島征伐がおそらく信長の本心だったように窺われます」
と穴山信君が言った。それに異論を唱えるものはなかった。
「さて、このような情勢下において、わが軍はいかなる行動を取るべきかをここで充分に審議しようではないか」
と信君は言った。諸将はそれに頷いたが、では拙者がと、進んで意見を申し出る者はなかった。各部将は自分が率いて来た将兵たちがどのような状態にあるのかをよく知っていた。故郷を出たのは五月の初めであった。既に五十日近くは経っていた。兵の多くは自作農出身である。農事のことが心配だった。長い出征で疲れてもいた。とにかく、一度は家へ帰って家族の顔を見たかった。
特に穴山信君の部下の将兵の者の多くは甲斐の南の地方出身が多い。歩いて、一日とはかからないようなところに、女房、子供、親兄弟がいるのに、このまま廻れ右をして再び戦いにおもむくことは心情としてまことにつらいことだった。それらの兵の気持ちを無視しての軍事行動は士気に影響した。
「まず、各頭の荷駄隊の兵糧、矢、弾丸(たま)についての現状を聞かせて貰えぬかな」
信君は言った。
「そのことなら荷駄隊にいちいち聞かずとも分かっています。わが隊は、あすの兵糧にもこと欠く始末です」
と小山田信茂が言った。
信茂の発言と共に、各頭の将たちが同様のことを言った。手持ちの食糧は底をついていた。新たな軍行動を起こすとすれば、まず、兵糧をどうやって確保するかが問題である。行く先々で、むやみやたらと徴発行為はできない。そんなことをすれば、住民の恨みを買い、必ず何時かは仕返しを受ける。占領地内に敵を抱えこむことは上策とは言えない。現地調達の方針で進むとすれば、それに見合うだけの金銭の用意がいる。上納米前借は一度はできるがその借りを返済しないかぎり、二度三度と続けてできるものではない。
諸将は沈黙した。苦汁を飲み込んだような顔だった。長島救援の手段はいろいろある。美濃へ急遽出兵することが第一である。武田軍が岐阜を目指したら、信長は即刻兵を退いて帰城するだろう。美濃へ出兵しなくとも、このまま廻れ右をして、遠江に出撃して、浜松城を囲めば、信長は長島攻撃をあきらめて浜松城救援にやって来るであろう。だがしかし兵糧はどうしたらいいのだ。兵たちに夜盗の真似ごとは断じてさせたくない。しかし、食べる物がなくなれば、兵たちは何をするか分からない。
そのころ長島にいる真田昌幸から書状が届いていた。その書状には、信長が長島封鎖作戦に出て来たことを告げていた。浅井、朝倉の亡びた後、武田にとって頼りとなるのは本願寺派だけである。なんとしてでも長島本願寺派を救援しなければならないと、昌幸は熱っぽい口調でこれを説いてあり、「だからと言って高天神城で勝利を収め、いま帰郷の途上にあるお味方衆をそのまま長島救援に向かわせるのは無理である。兵糧のことも気にかかる。本体はそのまま帰国して、そのかわり、武田家取って置きの水軍を伊勢湾に投入して、織田軍の海上封鎖を破っていただきたい」と強くすすめていた。
「武田水軍は亡きお館様の上洛に備えて準備されたものだ。武田の軍旗を京都に立てるとき、武田水軍もまた海路京へ向かっておし上げるのだとかねがね仰せられていた。武田水軍は、先代様の遺されたもっとも大事なかたみのようなものである。夢々軽々しく使ってはならないと心得ているがみなの者はどう考えるかな」
それまで黙っていた逍遥軒武田信廉が言った。信廉の発言はちょっと的はずれの感がないでもなかったが、信玄の名を出されると、それに抗してものを言える者はない。
「だが、しかし、いまは緊急時、武田水軍が動かないと、長島が亡びるかもしれぬ」
と勝頼が言った。
「四郎殿、言葉を慎しまれい。長島を救うために、武田水軍を亡ぼしてもいいのか。昌幸の報告によると、織田徳川連合水軍と武田水軍との軍船の差は僅少、絶対に勝てるとは言えない。もし武田水軍に万一のことがあったら、先代様にどのようにおわび申し上げるつもりです」
信廉の言葉は厳しかった。勝頼はむっとしたような顔で信廉の顔を見た。困った叔父だと思った。誰かが、自分にかわって信廉を説き伏せてくれる者はないかと思って周囲に眼をやったが、誰もその役を引き受けるのを嫌ったように眼を伏せていた。たった一人、長坂長閑斎だけが勝頼の眼を待っていた。長閑斎は勝頼の眼に応えた。
「武田水軍が伊勢湾に出撃して、織田水軍を打ち破ることは、上洛の路を武田水軍が開くことであり、京都に武田の旗を立てよという先代様の御遺言にいささかなりともそむくものではございませぬ」
多くの武将はほっとしたように顔を上げた。よく言ってくれたと思っている者が多かった。
「言葉をすりかえてはこまる。先代様の御遺言は武田軍が総力を挙げて上洛作戦の途上についたときこそ、武田水軍が出撃するときだと聞かされておるのだ。いまはその時ではない」
穴山信君が長坂長閑斎の言葉を封じた。
室内が急に暗くなった。雷雲が発生したらしく、雷光と共に雷鳴が聞こえた。』
その16へ続く
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