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決戦! 長篠の戦い その21

『「本日は死ぬるによき日かな」
つぶやきを耳にした昌満(まさみつ)は、驚いて隣の父を見た。目を細めて雲間から差し込む陽光を仰ぎ見ているのは昌満の父、山県昌景である。父は四尺あまりの栗毛の馬にまたがり、金の天衝(てんつき)を前立(まえだて)にあしらった兜と朱色の漆で塗り込めた具足に身を包み、黒地に白桔梗(しろききょう)の旗指物(はたさしもの)を背にしている。全身赤装で固めた父が、馬上から背後をゆるりと振り返った。口元をキッと一文字に引き結んであるじの下知を待っているのは、朱漆の具足をそろいまとう山県の同心一同である。真っ赤な旗指物のはためき以外しわぶきひとつ聞こえず、兵たちの具足が朝日の照り返しを受けてまぶしく輝き、空まで赤く色づくほどだった。
「よき日かな」
ふたたび、満足げにつぶやく。静まりかえる軍兵の群れに、張り詰めた気配。昌満は初めて見るいくさ場の光景に呑まれまいと、総毛立つ二の腕を必死で握り締めていた。』 —「甲州赤鬼伝」より―
 
 上記は霧島兵庫著の小説「甲州赤鬼伝」の冒頭である。
 この武田軍と織田・徳川連合軍との決戦が開始される前に、武田方ではどのような軍議が行われていたのであろうか。
 新田次郎氏の小説「武田勝頼」では、信長が佐久間信盛を使って武田軍を誘い出したという説が話の中に組み込まれている。以下、『 』内は同書より引用している。
 『18日の夜になって、穴山信君(のぶただ)が医王寺の武田勝頼の本陣を訪れた。百姓姿の男を連れていた。雨の中を遠くから来たらしく男は濡れていた。「この者は佐久間信盛の家臣佐久間三左衛門と申すもの、織田掃部(かもん)殿より拙者あての書状を持ってさきほどわが陣中に至りましたので、早速ここに連れて参りました」
 信君は佐久間三左衛門を連れて来た事情を簡単に説明し、織田掃部から穴山信君にあてた書状をそこに置いた。勝頼はそれに目を通した。佐久間三左衛門を信君に紹介し、この者は佐久間信盛の書状を持参しているから、速やかに勝頼公にお引き合わせ願いたいと書いてあった。勝頼はその書状を信君に返すと、
 「しばらくは会わないが、掃部は元気か」
 と三左衛門に訊いた。
 「はい、お元気でおられますが・・・・」
 後は言わなかった。
   「岩村城のこと以来、信長殿にうとんぜられているとのことだが」
 というと三左衛門は、
  「さようでございます。ようやく息をしているような有様で見るもお気の毒・・・・」と後を濁した。
 「勝頼にとって織田掃部はなつかしい人であった。雪姫との縁談の使者以来、彼はしばしば甲斐へ来ていた。結婚式のときも信勝が生まれたときも、高遠城へ来た。雪姫が死んだときには、勝頼以上に嘆き悲しんだ男である。織田家きっての武田通である。
 秋山信友と遠山景任の未亡人ゆうとの結婚は、こうすれば織田と武田の間が将来ともうまく行くだろうと思ってしたことだが、後でこれを知った信長はひどく怒って、織田掃部を罵倒したということを聞いていた。
 「さて、掃部がなにを言って寄こしたのかな」
 彼はそう言いながら、佐久間三左衛門が差し出した二通の書状のうち、まず織田掃部の書状を開いた。
 織田掃部は型通りの挨拶文をしたためたあとで、信長にうとんじられて以来の身の不幸を嘆き、願うことなら武田家へ奉公をと考えていると心情を吐露し、同じようにつらい立場にいる佐久間信盛に触れ、
 「佐久間殿は今朝方、いささかの遅刻を理由に諸将の前でお館様に面罵されたばかりでなく、このたびの武田との戦いでは三方ヶ原の合戦の時のように逃亡まかりならぬときめつけられた。佐久間信盛殿はこれほどの恥をかかされて尚且つ、信長に奉公するつもりはなくなったから、この度の戦いには、武田方に味方して、必ず武田勝頼殿を勝将軍にしたいからぜひ味方に加えていただきたいと言っている。織田方重代の部将の佐久間信盛殿が決心したことだから、疑う余地はない。よろしくお願いしたい」と書いてあった。次いで勝頼は佐久間信盛の書状を開いた。内容は意外に簡単だった。
「くわしくは織田掃部殿からの知らせのごとくである。意を決して誓書をしたため、武田に味方することにした。もう後に引き返すことはできぬ。よろしくお引き回し願いたい」
 という意味のことが固い字で記されていた。書状の他に誓書があった。勝頼はそれを穴山信君の方に回し、彼は、このような話をどう解釈したらいいのか考えた。
 (あまりにも、虫がよすぎるような知らせである。裏になにかありはしないか)
 勝頼はそう考えながら穴山信君に目をやった。穴山信君は、信玄時代から外交問題を引き受けていた。他国の情勢にくわしいし、このような機密に属することも、幾つか手掛けている。信君のほんとうの腹を訊いてみようと思った。勝頼は、家臣を呼んで使者の佐久間三左衛門を別室に引き取らせて、食事をすすめるように言いつけたあとで、穴山信君を近くに呼んで聞いた。
 「信じてよいであろうか」
 「この書状だけならば、疑いもいたしますが、今朝ほどの、望月正九郎よりの通報が裏付けとなります。まずは信じてよいのではないかと存じます」
 そう言われてみるとそうであった。望月正九郎が諸国御使者衆の古屋惣兵衛を伝令に使っての情報と、佐久間信盛、織田掃部等の言っていることとがぴったり一致していた。
 「だが・・・・」
 と勝頼は危うんだ。
 「これが、信長の考え出した謀略だったらたいへんなことになるぞ」
 「信長という人間は、思慮遠謀型ではなく、思いつきで仕事をする男です。相手を許すといつわって降参させて首を切るというような理不尽なことは平気でやるが、このような手の込んだ策を弄したことはいままで一度もありません。また信長ほどの大名ともなれば、合戦に先立ってこのような姑息な手段は取れますまい。それこそ世人の物笑いの種にされます。それを考えぬような愚か者では天下は取れないでしょう。これは信長が考え出した芝居とは思われません」
 信君は断言した。
 「そうだな。たしかに」
 勝頼は信君のいうことがもっともだと思ったが、念のため真田昌幸と、曾根内匠を呼んで、この件について問うた。
 曾根内匠は熟考していて、はっきりした返事をしなかったが、昌幸は次々と理由を上げて、これは信長自身が考えた謀略だろうと断言した。

一 信長が、浅井久政、長政父子と朝倉義景の髑髏を新年宴会の酒の肴として諸将の前に出した一事をみても、信長が常人であるとは考えられない。彼は気狂いと天才の境界にいる人間である。

二 信長は本能的に武田軍を恐がっている。高天神城救援をわざと遅らせたのも、武田軍とまともに戦っては勝てないと考えたからである。

三 信長が今度、岐阜を発つ時から既に、馬塞ぎの棒と縄を全軍に用意させたのは、武田の騎馬隊に備えることが一つ、もう一つは、その棒と縄を利用して武田軍を誘引しようと考えたからである。

四 信長は武田軍を馬塞ぎの柵まで誘い出し、三千挺の鉄砲によって致命的な打撃を与えようと考えている。

五 信長がその考えを実現に移すためには、なにがなんでも、武田軍に突撃を敢行するようしむけねばならない。信長は常人ではない。勝つ為には、いかなる策でも取る男だ。武士の体面だの、人の噂など気にする男ではない。おそらくこれは佐久間信盛の弱みにつけこんで、彼を利用しての信長の謀略に違いない。

六 信長の謀略だという証拠の一つは、軍議が終わった後で、佐久間信盛が秀吉に向って、切腹するか裏切るかのどちらかだと言ったということである。信長は常人ではないが、信盛はきわめて平凡な武将である。その信盛が、そんなことを人前で大きな声でしゃべる筈がない。これは明らかに、信盛と信長との間に亀裂が入ったように見せかけるためである。

七 この件については佐久間信盛を信用してはならない。表面上は佐久間信盛の裏切りを許したような顔をして、敵の動きを監視すべきである。

 曾根内匠は昌幸の話をうなずきながら聞いていたが、積極的に支持しようとはしなかった。穴山信君は昌幸の弁説を初めは苦々しい顔で聞いていたが、あとになると、いくらか昌幸の説に動かされたようであった。勝頼は昌幸の説を素直に受け入れていた。佐久間信盛をうっかり信用できないぞと思っていた。
 勝頼は佐久間三左衛門を呼んで、表面的には織田掃部と佐久間信盛の申し入れを快く許すと告げた上で、すみやかにくわしい敵の情報をよこすよう命じた。』

 このように新田次郎氏は佐久間信盛が信長の謀略に使われた説をストーリーの中に取り入れているが、一方で次のようにも述べている。
『設楽ヶ原の合戦は疑問だらけの戦いである。その疑問の最大なるものは、馬塞ぎや乾堀を掘って待っている連合軍になぜ武田軍が自殺的な突撃を繰り返して潰(ついえ)たかということである。これに関して、信長が佐久間信盛を使って武田軍を誘い出したという俗説がある。「三州長篠合戦」「紀伊国物語」「長篠実戦記」等である。何れも史書として扱うには問題の多い本である。これ等には佐久間信盛が信長の命を受けて、武田方の跡部、長坂等と秘かに通じ、合戦のその日には、必ず武田方に寝返るからといつわって武田勢を設楽ヶ原に誘い出したと書いてある。ちなみに、長坂長閑斎はこの戦いには参戦していない』と述べている。
 しかし、上記の『長坂長閑斎はこの戦いには参戦していない』の部分であるが、作者がこのように判断している理由として、勝頼が長篠合戦の際に自陣から当時駿河にいたとされる長坂長閑斎宛てに手紙を出している事を根拠としているのかもしれない。しかし、近年これについては【歴史群像】シリーズの中でも紹介したように、手紙の宛先は長坂長閑斎ではなく、今福長閑斎であると言われているようだ。そうなると、長坂長閑斎は長篠合戦に出陣していたのだろうか。
 兵軍書『甲陽軍鑑』では設楽ヶ原の合戦の敗北原因について、勝頼が宿将たちの献言をしりぞけ、跡部勝資、長坂長閑斎等の言を取りあげて、馬塞ぎの柵に向って総攻撃をかけたがためだと述べられている。私が思うに新田次郎氏はこの『長坂長閑斎等の言を取りあげて』の部分を否定したかったのだと思われる。

 さてこの後、小説の中では鳶ノ巣山砦を守る武田信実から勝頼のもとへ知らせが届いていた。酒井忠次の鳶ノ巣山砦への攻撃は武田軍を敵の鉄砲柵へ誘い込むための作戦であるとの考えであった。この知らせを受けて穴山信君は信実は考え過ぎだと主張したが、真田昌幸と曾根内匠は穴山信君の言を否定し、武田軍本体は退却すべきと意見した。しかし穴山信君は決戦を主張し真田と曾根を睨みつけ怒りで太刀に手をかけるほどであった。
 『こうなると山県昌景と馬場信春の発言はいよいよできなくなった。2人は顔を見合わせたまま黙っていた。山県にしても、馬場にしても、信実よりの情報に聞き耳を立て、昌幸と内匠の言にかなり動かされていた。総攻撃は見合わせた方がいいかもしれないと、考え始めていた。だが、信君が怒り出してしまうと、若手参謀のこの2人の意見に簡単に賛成できない立場になった。両将はいよいよ固く口をつぐんだ。夜は明け放たれていた。開戦の時刻は迫りつつあった。』

 一般的には穴山信君をはじめとする諸将は退却を主張したが、勝頼が長坂らの諫言を受け入れ決戦したと言われている。では、その最後の決断の場面は小説『武田勝頼』ではどのように描かれているのか。その箇所を引用してみたい。
 『その雨の音を聞きながら、設楽ヶ原の本陣では、武田勝頼、穴山信君、武田信廉、山県昌景、馬場信春、そして勝頼の使番衆の真田昌幸と曾根内匠が最後の決定の場に立っていた。穴山信君が腰の刀に手を掛けたほど、むき出しの怒りを真田昌幸に示したのは、それだけの理由があった。
 信玄は御親類衆より家臣団を重く見ていた。能力ある者はその家柄がどうであろうが、いっさい気にせずに取り立てた。馬場信春がそのような経歴の大将だった。真田昌幸もまたその能力を認められて、常に信玄の側近にあった。真田昌幸は甲斐の人ではない。信濃小県の真田幸隆の子である。いわゆる譜代の家来ではなかった。信玄はその昌幸と、そして曾根内匠の二人を指して「余の二つの目」と言った。一度や二度ではなかった。二人が信頼されていたのはそれだけ、二人の知能が抜群だったからである。信玄が二人を重く見れば見るほど、御親類衆を代表する立場の穴山信君にはにがにがしく思われてならなかった。勝頼は父信玄の「二つの目」の遺産をそっくり受け継いだ。これがまた信君には我慢できないことだった。
 信君が昌幸を叱ったとき、彼は御親類衆すべての力を背に負っていた。もし、勝頼が、昌幸の肩を持つようなことになれば、刀の柄にかけたその手の肘(ひじ)は勝頼に向けられることになるかもしれない。そうなれば武田家は分裂崩壊することになる。あってはならないことだ。
 信君はそこまで勘定に入れて、自説を押し通そうとしたのである。この場合、家臣団の代表、山県昌景と馬場信春の立場が重大だった。勝頼が内心、昌幸の言を入れようとしていることは明瞭だし、昌幸や内匠の言うとおり、信長の謀略が目の前にちらつき出したのだから、山県、馬場が口をそろえて昌幸の言を支持すれば、勝頼をして、作戦中止に踏み切ることもできた。だが、昌景も、信春も黙っていた。
 穴山信君と武田信廉の意見が合一したところで、二人は発言できなくなっていた。信君が刀に手を掛けて昌幸を叱ったとき、両将は、御親類衆の勢力が勝頼を圧倒したのをはっきり見た。両将の発言によって、力の均衡を破ることはむずかしいと思った。それに両将とも誓書までさし出した佐久間信盛の行動がすべて信長の指示だとは思いたくなかった。武士とはかくあるべきものであるという定義の中には、武士たるものが偽りの誓書をしたためることなどあろう筈がなかった。神明に誓って、武田殿にお味方すると書いて、血判まで押したその誓書が信長の強請によるものだとは考えられなかった。その一事が両将の頭にあったから、疑わしいと思いながらも、昌幸の言を積極的に支持せず、長い沈黙となったのである。
 「黙っていたのでは分からない。そこもとたちの意見を申してみよ」
 勝頼は昌景に言った。乞うような眼(まな)ざしだった。真田昌幸の意見を支持してくれと頼みこむ目つきだった。すがりつくような勝頼の目を振り切って、
 「今ここで作戦を変更すると、混乱が生じます。すでに、その時は経過しました。なにとぞ出陣のおふれを・・・」
 昌景は言った。その言葉の中には自らの心の底まで浸みこむようなむなしさがあった。昌景は自ら慄然とした。
 「そちはどうか」
 勝頼が馬場信春に向けた目には最後の懇願があった。その目に打たれたように信春は目を伏せたままで言った。
 「総攻撃に出るならば、雨が降っている間のほうがよいかと思います。敵の鉄砲は、この雨では、ものの役には立ちますまい」
 信春はそう言って顔を上げたとき、勝頼の冷やかな目に当たった。その目は、あの時の信玄の目に似ていた。川中島の合戦の時、迂回して敵を討つべしという策を持ち出したのは馬場信春(当時は民部)だった。そして、その作戦の裏をかかれて味方は大損害を受けた。その時の軍議の席上で、馬場信春の発言が大勢を制したとき、信玄が信春に向けた目が、いま勝頼が信春に投げかけた冷やかな目であった。
 (われ誤りてり・・・)
 信春はそう思った。だがもう遅かった。勝頼の目は信春から去っていた。
 「今朝卯の刻(午前六時)総攻撃を開始する。御旗(みはた)、楯無(たてなし)に誓って余は織田信長、徳川家康の首を申し受けるであろう」
 勝頼の声の中には、幾許(いくばく)かの淋しげな余韻があった。そこに居ならぶ者のことごとくが平伏して、御旗、楯無の武田重代の宝物にかけて戦うことを誓った。武田家の統領が、御旗、楯無に誓うと言った以上、いかなることがあっても、それに従わざるを得ないのが武田家の掟であった。』

その22へ続く


 

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