決戦! 長篠の戦い その2

前回に述べたとおり、信玄時代の簡単な流れと、勝頼の生い立ちを紹介しようと思います。それにともない、新田次郎の小説「武田勝頼」の冒頭部分が分かりやすいので引用させてもらいます。一部省略、漢字簡略化。

武田勝頼(一)陽の巻
生い立ち
『勝頼は天分15年(1546年)甲斐国古府中(現在の甲府市)、躑躅ヶ崎の館(武田信玄の居館、現在位置・甲府市内武田神社)において出生した。母は信濃国(長野県)の諏訪頼重(すわよりしげ)の娘の湖衣姫(こいひめ)で、信玄の側室として迎えられ勝頼を生んだのである。
 勝頼が生まれた時、父武田信玄(当時は晴信と称していた)は26歳の男盛りで正室三条氏との間に嫡男義信、次男龍宝、三男信之があり、姉も3人いた。
 勝頼は四男だから四郎と名付けられた。武田家の子だから、一般的に考えれば名前に信の一字がつく筈であったが、勝頼だけは、母方の祖父諏訪頼重の頼を取って勝頼と命名された。それは、その時既に武田信玄によって滅ぼされた信濃の諏訪家を勝頼に継がせる腹づもりが信玄にあったのだと云われている。
 当時武田信玄は信濃国制覇の執念を燃やしていた。甲斐国と境を接している諏訪が滅ぼされ、更に佐久、小県(ちいさがた)方面へ信玄の手は伸びていた。勝頼はこのような戦国動乱の真っ只中に生を受けたのである。
 勝頼の母湖衣姫は絶世の美人であったが、弘治元年(1555年)に早逝した。勝頼が9歳の時である。勝頼は母に似て美男子であり、幼時はお守役に育てられ、なに不自由なく暮らしていた。このころ、武田信玄は、信濃に深く攻め入り、諏訪、伊奈、木曾、佐久、安曇寺の諸地方の豪族を武田家のもとに隷属させ、宿敵、上杉謙信(当時は長尾景虎)と信濃の川中島地方を争っていた。
 勝頼が信濃国高遠城主として歴史にはじめてその名を見せたのは永禄5年(1562年)である。川中島の大会戦があった翌年であり、武田信玄がほぼ信濃全土をその傘下に収めた年のことであった。勝頼は若冠16歳で、信濃国、伊奈高遠城主として迎えられたのである。
 これは信玄が生まれたときから、諏訪家の後継者にしようと願っていたことを実施したまでのことであった。
 信玄が滅ぼした諏訪家は神氏(かみうじ)として神代(かみよ)から伝わる名家で、諏訪神社の大祝職(おおはふり)であると同時に諏訪地方の領主でもあり、祭政共に司(つかさど)る家柄として日本中に信者を持っていた。諏訪氏即ち諏訪神社大祝は神域として諏訪、高遠、小県の三郡を領し、おかすべからざる勢力を持っていた。
 信玄はこの神氏の諏訪家を滅ぼし、自領にしていたが、勝頼が長ずるに及んで諏訪神社の信徒や住民感情を考慮し、諏訪家の血筋を引く彼を高遠城主にしたのである。
 信玄が得意とする慰留政策だった。勝頼はこれまで通称諏訪四郎勝頼と呼ばれていたが、このころから通称伊奈四郎勝頼と呼ばれるようになった。
 勝頼が高遠城主になった時は次兄の龍宝は目が不自由なるがために僧籍に入っており、三男の信之は早逝したので、勝頼は、兄義信に次ぐ人として武田家中では重要な存在になっていた。
 勝頼の初陣は17歳であった。
 彼は父信玄と共に上州(群馬県)箕輪(みのわ)城の攻撃に参加し、敵の大物見の大将、藤井豊後守と組み討ちをしてその首を挙げた。
 父の信玄はこれを聞いて、内心では喜んでいたが、大将たるものは決して粗暴なふるまいをしてはならないと若き勝頼をいましめた。
 父信玄に聊爾者(りょうじもの)め(軽はずみな奴)と叱られた勝頼だったが、その後の戦にも自ら先頭に立って戦い、しばしば手柄を立てて、側近の者をはらはらさせた。戦好きな武勇の将として勝頼は武田家中に次第に名を高めていった。
 父信玄は、最愛の側室湖衣姫が生んだ勝頼を兄の義信より可愛がっていた。そのころ嫡男の義信と信玄の仲は次第に冷却しつつあった。信玄の嫡子武田義信と父信玄の間に溝ができたのは永禄4年の川中島の大会戦の折であった。
 義信はこの合戦で父信玄の命令を守らず、独自の軍事行動に出たがために、一時武田軍は苦境に落ち入った。合戦が終わった後で、信玄は義信を前にして激怒した。この時は、家臣たちが次々と信玄と義信の間に割って入り、どうやら収めたが、この時以来、父子の関係はうまく行かなくなった。
 父信玄がやることなすことのすべてについて義信がいちいち反対するのである。信玄は小さなことなら、若い者の云うことだからと聞いてやったが、終に父子の意見が真っ向から対立するような事態が出来(しゅったい)した。
 問題は駿河(静岡県)侵略の可否についてであった。信玄はこれを望み、義信は強く反対した。
 武田信玄は大局的立場から物を考え、義信は小局的に物を考えた。そこにどうにもならぬ意見の差が出来たのである。親子であることが、この場合、かえって溝を深めた。
 武田信玄は信濃及び西上野(こうずけ)をその勢力下に収めて、国力がもっとも充実した時であった。天下を望む彼としてはこのままじっとしては居られなかった。京都へ向かって、西上の軍を発するにはまず東海道へ出るのが早道だった。
 当時駿河、遠江(とおとうみ)の二国を領している今川氏真は暗愚であり、家臣団も2つに分かれて動揺していた。信玄はこの駿河へ侵略を企てようとしたのである。ところが、駿河の今川家と関東の北条家と武田家との三家は三国同盟を結んでいて、互いに侵略はしないことになっていた。三国はそれぞれ婚姻政策によって結ばれてもいた。武田信玄の嫡男、義信の正室は今川氏真の妹であった。
 信玄は大局から天下を観望し、三国同盟などいまや過去のものであり、織田信長という新興大勢力に対抗するためには、三国同盟を破っても東海に進出して、ここに確固たる地盤を築かなければならないと考えていた。
 しかし義信は飽くまでも三国同盟にこだわっていた。隣国との信義を破るような卑劣なふるまいはできない。駿河侵略など武士たる者がやるべきではないと云って反対した。
 武田家内部は信玄に従う者と、義信の筋論に従う者と二派に別れようとした。まさに分裂の危機であった。
 信玄は嫡男義信を幽閉した。こうすることによって反省を求めたのであったが、義信は頑固に意思を変えようとはせず、二年後に病死した。永禄10年(1567年)のことであった。』

その3へ続く


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