決戦! 長篠の戦い その10
引き続き、新田次郎の小説「武田勝頼」より一部抜粋・省略・漢字簡略化。
木曾衆手強し(きそしゅうてごわし)
『天正2年(1574年)正月27日、岐阜城へ早馬の注進があった。
「東美濃の岩村城の動きがおかしい。在野の郷士にひそかに召集令が回されたし、食糧の搬入が活発となりました」
在野の郷士に召集令が回されたというのは、合戦近きことを示すものである。合戦には2種類ある。大きな作戦の一環としての出撃、又は籠城である。食料の搬入が行なわれているということは籠城を考慮した合戦と見るべきである。だが、戦国の世には、敵を欺くために、故意に人を集めたり、城の守りを固めたりすることがある。牽制(けんせい)策である。うっかりひっかかるとひどい目に合う。だが、岩村城になんなりと動きがあるということは岩村城を含めての武田陣営に何等かの変化が起こる前提と見るべきであった。
織田信長はこの情報に神経をぴくっとさせた。東美濃の警戒を厳重にすると共に、武田の動きを監視するように命じた。
諸国からの情報は絶え間なくやって来る。信長はその情報をいちいち聞いて、その中で特に重要と思われるものについては、直接、使者や間者や、時によると百姓、町人にも会った。正月27日に信長に報告されたこれらのうちで、信長が注意を向けたものは2つあった。一つは岩村城からの情報であり、もう一つは、将軍の地位を追われた足利義昭の家臣一色藤長が島津家の家臣、伊集院忠棟へ送った書状である。内容は義昭の窮状を述べたものであるが、その中には天下の情勢は依然として移り変わりがはげしく、特に東国の武田勝頼の今後の動きこそもっとも注目すべきものであると書いてあった。この書状を持っていた使者が捕らわれて、書状が信長のところへ届けられたのである。書状の内容には謀叛の臭いは感じられなかったが、義昭が一色藤長を通じてこのような書状を各地の実力者に出していることが窺知(きち)され、こういう行為の裏には今尚、天下に執着する義昭の野望が隠されているものと見てさしつかえはなかった。
信長は書状を一見した後で、眼を上げた。側近の者が、信長の言を待つように両手をつかえた。書き役は筆の先に墨を含ませた。だが、信長は書き役には何も言わず、一色藤長の書状をぽいと放り出して、
「明智城はどうなっているか」
と側近に訊いた。一色藤長の書状についてなにかの指示があると思っていた側近は、明智城と信長がいきなり云ったことが非常に重大なことに思われたので、丹羽長秀を呼んだ。長秀がこの方面のことに詳しいからだった。
「岩村城の動き出したことは、多分、勝頼が重い腰を上げるということであろう。とすると明智城が危い」
信長は言った。
「明智城には最近人数も入れ、城の改修も終わったばかりです。信玄の生きている頃ならばともかく、信玄亡き今となっては、岩村城よりの攻撃を受けたとて、そう簡単に落ちるとは考えれませぬ」
長秀はひととおりのことを言った。
「勝頼が直接兵を率いて来ても落ちぬと言い切れるか」
信長はじろりと長秀を見た。その眼はすぐ側近の方へ移り、絵図をと言った。長秀は信長の一瞥(いちべつ)を受けたとき、これは何かあるなと思った。それは信長の感情が激しく動揺する前に見せる癖だった。一瞥の次には凝視がある。そして火のような言葉を聞かねばならなかった。丹羽長秀は信長の多くの家臣の中で、信長の近くにいる時間が比較的多い武将だった。信長の気に入りの家臣というわけでもなかった。信長のお気に入りの家臣ならば木下藤吉郎(秀吉)や明智光秀がいた。お気に入りではないが、なにかというと長秀を呼べと言って引っ張り出されるのは、丹羽長秀の人柄にあった。
丹羽長秀という人物は、気が利くのか利かないのか、気が回るのか回らないのか、どことなく、つかみどころのない人であった。信長が頭ごなしに叱りつけても、顔色を変えてかしこまるようなこともなく、さりとて不貞腐れた態度でもなく、お叱りごもっともと信長を立てるあたりのこつをよく心得ていた。叱られっぷりのよい家臣であった。信長もこれをよく知っていて、虫の居どころが悪いときには、丹羽長秀をよく呼んで、当り散らしていた。他の家臣なら、叱られたことを気にしたり、根に持つが、丹羽長秀にはそういうことはなかった。叱られると、かしこまって謝るが、そのことはすぐけろりと忘れてしまう。実際は忘れないのだが、忘れてしまったような顔をするところが長秀の上手なところだった。
「勝頼が腰を上げるかもしれないぞ」
と信長が言った。
「そうだとすれば、もっけの幸い、美濃に誘い出して討ち取ればよいでしょう」
「五郎左、お前の眼は開いているのか」
「はいこのとおり、勝頼のことなら一応存じておるつもりです」
「目が開いていても見えぬ者もあるわい。五郎左、勝頼は信玄以上の強敵ぞ」
信長が、長秀のことを五郎左と呼び捨てにするときは機嫌のいいときである。長秀には勝頼が動き出すかも分からないというのになぜ、信長の機嫌がいいのかは分からなかった。
「信玄は合戦の神様といわれた名将ですが、勝頼がなぜ信玄以上の強敵でしょうか」
「だから、お前の眼はふし穴だと言っておるのだ。そのうち勝頼がそちのような凡将ではないことが分かるだろう」
凡将にされた長秀は、さてなというふうな顔をした。信長は何をもとにして勝頼の評価を定めようとしているのかと思った。
「五郎左、勝頼のもとに武田が一つにまとまったとなれば、恐るべき力を発揮するぞ。古府中(甲府)よりの情報だと、勝頼は、武田の重宝、御旗、楯無の前で、武田の統領たることを先祖に誓ったそうだ。つまり武田内部の内紛はおさまったということになるのだ。そうなった場合、まず最初に勝頼がすることはなんだと思う」
「分かりませぬ、見当もつきませぬ」
「勝頼ここにあり、武田は今尚健在たりと日本中に喧伝するためにふさわしい戦をやるだろう」
「それは考えられまする。すると、岩村城の動きは、やがて勝頼が攻めて来る前兆・・・・」
「おそらくさように考えられる」
信長はそこへ持って来られた絵図に見入った。東美濃には山が多い。岩村城も明智城も山の中にある。明智城は岩村の南二里余(9キロ)のところにあって、かろうじて、岩村城と対抗はしているが、もし包囲されたら長く持ちこたえることは困難に思われた。援軍を急速に動かせるようなところでもなかった。
信長は一言も言わなかった。いつものように絵図を見ていて直感的な作戦を口に出すようなこともせずに、じっと考え込んでいた。長秀はその信長を不思議なものを見るような眼で眺めていた。
2月2日、勝頼は旗本二百騎を引き連れて諏訪から伊奈路に向かった。2月2日を新暦に直すと3月15日である。春の訪れがいたるところに来ていた。勝頼はネコヤナギの花芽の枝を折って箙(えびら)にさして、先頭に立った。駿馬に乗って駈け通す勝頼の後を旗本たちは懸命に追従した。足軽は遅れた。二百騎は一隊となって駈けに駈けた。沿道の者が気がついて挨拶しようとするときは通り過ぎていた。伊奈路に入ると、ずっと暖かかった。騎馬隊が通ると、濛々(もうもう)と土煙が上がった。
諏訪と高遠には小憩しただけで、駈け通して飯田城に入ったところで、待っていた岩村城主の秋山信友の家老、座光寺宗右衛門と会見した。
秋山信友は一昨年元亀三年(1572年)11月27日、岩村城を囲み、前の城主、故遠山左衛門尉景任の未亡人ゆうと結婚することによって岩村城を無血占領した。ゆう女は信長より年下だが信長の叔母に当たる人であり、美貌で知られていた。
秋山信友の率いる軍隊の主力は俗に春近衆と言われる伊那谷の将兵であった。座光寺宗右衛門も伊奈の人である。座光寺宗右衛門は勝頼に問われるままに、東美濃の状況を報告した。
「岩村城及び明智城への道筋はどうか」
との下問に対して、
「今のところは御心配はありませんが、時を失すると信長の軍勢が行く手をはばむこと必定です。今すぐならば、地理にくわしい春近衆二百騎が御案内つかまつります。直ちに岩村城に御着陣なされ、後続部隊到着と同時に明智城へ攻め込んだら良いかと思います」
宗右衛門は勝頼に進言したが、勝頼の側近たちは、それに反対した。後から続々とやって来る軍を整理し、軍団を編成して進撃した方がよいだろうと意見具申をした。
「そちたちの言うこともよく分かった。だが余は座光寺宗右衛門および春近衆の言を採用する。余は明朝美濃に向かう」
「余はこの度の合戦の成否を春近衆に賭ける。岩村城までの護衛と案内を頼むぞ」
春近衆は大いに面目をほどこして座を下がった。
翌朝、暗いうちに勝頼の一行は飯田を発して一路、東美濃に向かった。飯田から、岩村城までは十二里ある。平坦な道ではなく山道の悪路である。勝頼は春近衆二百騎と旗本二百騎を率いて、この道をたったの一日で駈け通して岩村城へ入った。
秋山信友は木ノ実峠まで勝頼を迎えた。
信長は、勝頼が想像もできないような早さで、岩村城に到着したという報をみたけ(現在の岐阜県可児郡御嵩町)で聞いた。信じられないことだった。
古府中から諏訪を経て岩村まで距離は四十三里(172キロ)、岐阜から御嵩(みたけ)までの距離は八里(32キロ)であった。勝頼は旗本を率いて二日で四十三里の道を駈け通したのである。勝頼が古府中を出発したのと信長が岐阜を出発したのと同じ日であったから、勝頼は信長の五倍の速度で山道を駈け通して岩村に着いたのである。勝頼が旗本二百騎を率いて古府中を出発して諏訪へ向かったという情報、更には、飯田から南下したという報告、そして途中から岩村に向かったという情報は、すべて勝頼が岩村城に到着した後で信長のところへ届いたのである。
「常識ではとても考えられぬことだ」
と信長はひとりごとを言った。それは勝頼の機敏な行動に対する讃辞でもあった。信長は、勝頼と旗本二百騎の行動に畏怖(いふ)した。自分にはとてもできないことだと思った。四十三里を馬で駈け通すなどということは肉体的に不可能だ。それを勝頼とその旗本はやったのだ。乗り換えの馬は何頭使ったのだろうか、そんなに長時間馬に乗っても、身体に異常はないものだろうか。
信長は、武田の騎馬隊の怖ろしさを眼のあたりに知らされた気がした。
その11へ続く