決戦! 長篠の戦い その19

・長篠での激突

以下、『 』内は「シリーズ【実像に迫る】長篠の戦い」より引用している。

・武田軍による長篠城包囲
 『
天正3年(1575)4月29日、三河吉田城・二連木城付近の「はじかみ原」において、武田勝頼率いる軍勢と徳川家康率いる軍勢が戦った。その結果、家康は吉田城に兵を引き、同城に籠ったため、勝頼は「このうえ」の「一動」として、長篠城攻めを決断した。その約20日後に長篠の戦いは起こった。そこに至ることになった分岐点のひとつは、このときの勝頼の決断にあろう。
 「当代記」によると、武田軍は5月1日から長篠城を取り囲んだ。竹束にて仕寄(しより)(城攻めのために用いる防御物)をつくり、諸所から金堀(かなほり)を入れて、昼夜を問わず攻めたという。金堀というのは鉱山労働者のことであり、武田軍は城攻めの際、彼ら金堀をよく用いていたという。工兵隊といったところだろうか。
 『信長記』(池田家本)には、勝頼は「円通寺山」(えんつうじやま)に陣取り、金堀を入れて二の丸まで掘り進んだところで、城内の兵はこれを撃退した。城では塀を付け直すなどして懸命に防ごうとしたが、5日から10日のうちには落城するのではないかという状態になっていたとある。このとき勝頼が布陣した「円通寺山」とは、長篠城の北にある大通寺山を指すのではないかとされている。
 江戸時代に菅沼家が幕府に提出した記録などによれば、勝頼は医王寺山(いおうじやま)(大通寺の約500メートル北に位置する)に陣し、他の部隊は大通寺山やその周辺に陣取ったとある。また、長篠城の東、大野川を挟んだ対岸にある鳶巣山(とびのすやま)の砦を付城として、叔父の武田信実(のぶさね)を配し、そのほか君が伏戸(ふしど)・姥が懐(うばがふところ)・久間山(ひさまやま)にもそれぞれ付城を築いて長篠城を監視したという。武田軍は1万5千人以上の兵を擁していた。
 いっぽう、長篠城は2月に守将として入った奥平信昌、また信昌が長篠城を託される以前にここを預かっていた五井松平景忠のほか、江戸時代の系図・編纂物によれば、松平家忠・同親俊らも入ったという。ただし親俊は病のため代わりに天野正忠が長篠城に入ったとする記録もある(寛永諸家系図伝、五井深溝松平同姓系譜、武徳編年集成)。城内の軍勢は200人、鉄砲200挺とされ、奥平家に残る記録では、軍勢を250人とする(御家譜編年叢林)。』

・長篠城をめぐる激闘
(以下一部省略)
 『5月6日、勝頼は長篠城を包囲していた軍勢をふたたび西の牛久保(うしくぼ)城方面へ移動させた。武田軍は諸所を放火したのち、長篠へ引き返した。吉田城に籠城していた家康の軍勢に対する牽制のつもりだろうか。
 その帰途、武田軍は橋尾の井堰(いぜき)を破壊したという。ここは東三河の田地へ豊川の水を引く灌漑(かんがい)のための堰であったらしく、そのせいでこの年は水不足となり、田は旱損してしまった。いくさのときにこうした行為はしないものだと「当代記」は批判している。
 11日、度合(どあい)と呼ばれる寒狭川・大野川合流付近の門から、武田軍は竹束の仕寄によってきびしく攻撃してきたが、城中より兵を出して防戦してきたため、武田の兵は道具を捨てて谷川の下へ敗走したという。このときの竹束は城兵によって焼き捨てられたが、翌日からまた武田軍は竹束をもって仕寄を再開した。
 13日の子の刻(午前零時頃)には、武田軍がふくべ丸という曲輪を強襲した。この曲輪は、土塁はなく塀のみであったため、攻め手は塀に鹿の角を引っかけ、これを引き倒そうとしたものの、城の内側から柱に縄をかけてしっかりと支えていたので倒すことができないでいた。そうしたところに城内から横矢を射られ、武田軍に損害が出たという。
 武田軍は井桜(せいろう)と呼ばれる攻撃のための櫓を組もうとしていた。高い井桜を組まれると、そこから攻撃を受けるため、大手門付近の兵の動きが制約されることに懸念をおぼえた信昌は、鉄砲を放ちかけ、また本丸より「大鉄砲」を撃ちこんだところ、井桜建設は失敗したという。このときのいくさにおける武田軍の死傷者は700~800人であったと記されている。
 奥平家の記録によれば、さらに14日にも武田軍は総攻撃をかけてきた。しかし、このときも鉄砲をもって撃退した。攻めあぐんだ武田軍は、その後は遠巻きに取り巻くのみであったとされる。
 もっとも、武田軍の長篠城攻めは18日頃まで間欠的に続いたようだ。18日にも武田軍が不意に長篠城内に攻め込んできた。そこで防戦し、手柄を立てた松平勝次が深手を負ったことに対し、家康は勝次に感状をあたえている。その後、勝次はこの負傷がもとで死去したという。』

・信長の来援
 『3月に、信長から家康に贈られた兵糧米のうち300俵が長篠城に備えられたため、包囲されても食料的には持ちこたえられたものと思われる。たび重なる武田軍の攻撃をそのつどはねのけたとはいえ、圧倒的な人数の差はいかんともしがたく、次第に長篠城に籠る兵たちは困窮していったのではないだろうか。
 ---------------------------------中略-------------------------------------
 信長は4月には本願寺攻めをおこなっており、4月28日に京都を発って岐阜に帰った。勝頼三河侵入の報は届いていたものと思われる。『信長記』によれば、その後5月13日に信忠とともに兵を率い岐阜を発ち、その日は熱田に宿し、翌14日から15日までは岡崎にあり、16日に牛久保城、17日に野田原に至った。』

・鳥居強右衛門の活躍
 (以下一部省略) 
信長が岡崎にあったとき、長篠城から来援を要請する使者としてやってきたのが、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)であった。兵糧が少なくなってきたことを知った信昌が、信長の来援を要請する使者を募ったところ、志願したのが強右衛門であった。強右衛門は、母と子の後事を託して、「わか君の命にかわる玉の緒の何いとひけん武士の道」という辞世を詠んだあと、5月14日の夜に城を出発したとされる。
 武田氏は厳重に城を取り巻いていたが、無事脱出して、出発前に約束していたとおり、城の向かいの山に狼煙(のろし)を揚げて仲間たちを安心させた。その後、岡崎に到着したのは翌15日の晩だという。約1日かかったわけである。長篠から岡崎まで、直線距離にして約37キロメートルある。
 『信長記』によると強右衛門は信長に対し、長篠城の様子をつぶさに言上した。信長は強右衛門の功を賞し、長篠城への報告は別の飛脚に任せて休むようにと彼をいたわったのだが、強右衛門は、みずからが城に戻って報告し、城内の兵を元気づけたいとこれを断り、すぐに長篠城へと取って返した。やはり1日かけて、16日の夜に長篠城までたどり着いたという。
 蟻の這い出る隙もないほど武田軍がきびしく城を囲んでいたため、強右衛門はどのようにして城に入ろうかと途方にくれていたところ、武田方の武士・河原弥太郎にその様子を怪しまれ、捕らえられてしまった。
 勝頼の前に出され、尋問を受けたとき、強右衛門は悪びれる様子もなく自身が帯びた密命を白状したので、勝頼はこれを許そうとした。その日の夜更け、武田信廉(のぶかど)が強右衛門のところに来て、長篠城内の味方に向かい、「信長の来援はないので早く開城するのがよろしかろう」と伝えてほしいと要請したところ、強右衛門はこれを受諾した。明け方に武田方の兵10人ほどを付けられた強右衛門が城近くまでやってきて、城内の仲間に対して、「信長卿はあと2、3日で当地に到着するから、もう少しの辛抱である」と伝えた。勝頼は強右衛門の行動を知り、「義士なり」として助けようとしたけれども、みずから望んで斬られたという。』

画像1

↑  武田軍によって磔にされた鳥居強右衛門
 設楽原歴史資料館パンフレットより) ↑

・長篠の戦い
 
さて、ここからは複数の資料を参考としつつも、私なりの思うところも混ぜながら見ていきたいと思う。ちなみに、この有名な長篠の戦いの主力戦については、多くの専門の方々が本を書き、また一般の方達が情報を発信しているので今さら私が同じ内容を書く必要もないだろう。それに主力戦について参考文献から多くを引用すると本を買う意味が薄らいでしまう。引用は少しにしたい。本格的な内容を知りたい方は、この私の「決戦! 長篠の戦い」シリーズの最後に参考書籍を掲載するので、興味のある方はそちらを本屋などで購入して読んでもらいたい。
 また、昔に学校の歴史の授業で習い、戦いの名前だけは覚えている人もいるかもしれない。そういった方々の中にも長篠の戦いの主力戦や、そこに至る経緯を知りたい場合は同様に掲載する本を読んでもらいたい。
 さて、長篠の戦いについてあまり知らない人もいると思うので、どんな戦いであったか簡単にざっくり言うと、騎馬隊と鉄砲隊の戦いである。信長が鉄砲を大量に使用して、突撃してくる武田の足軽隊、騎馬隊などを破った戦いである。もしかしたら黒沢明監督の「影武者」を観たことがある人は、最後のシーンのイメージが強いかもしれない。つまり、突撃する騎馬軍団が柵越しの鉄砲隊に一斉射撃されてバタバタと倒れていくシーンである。私も学生の頃にこの映画を観て、このイメージがとても強かった。しかし、同時に違和感も覚えていた。その違和感を以下に示す。
 
 違和感その1 馬のイメージ
 最近の戦国ドラマでも登場する馬たち。戦国時代の当時もあんなに大きな西洋馬だったのだろうか。昔の人達の身長の平均はもう少し低かったのではないだろうか。それに当時からあんなにきれいな馬たちがいたのだろうか。これについては木曾馬のような中型馬が主流だったのではないかと言われている。現在の馬に例えると、「少しごっついポニー」のイメージが合っているかもしれない。このような馬の速度はどのくらいだったのだろうか。現在の馬のような速度で駆けることは出来なかったのではないだろうか。しかも人間が乗ったらなおさらである。

違和感その2 騎馬隊だけの突撃のイメージ
 武田軍は騎馬軍団といわれているが、本当にたくさんの騎馬隊が出撃していたのだろうか。現在では、それほど多くの騎馬隊はいなかったと言われている。騎馬を使用していたのは侍大将以上のクラスだけで、ほとんどが足軽隊で、少しだけ長槍隊、鉄砲隊がいただけかもしれない。

違和感その3 鉄砲隊のイメージ
 狙撃手が三段ごとに入れ替りながらの一斉射撃。これは現在では否定されているようだ。三千丁と言われていた鉄砲の数も千丁ほどだったらしい。実際には鉄砲もどれほど使用されたかは定かではない。というのも、当地で行われた発掘調査では鉄砲の弾丸が8個しか見つかっていない。ほとんどが武田軍の兵や馬に命中して弾丸が体の中に留まったからだろうか。

 以上から、最近の研究では騎馬隊も、鉄砲隊の一斉射撃も無かったのかもしれないと言われている。おおげさな騎馬や鉄砲の使用はなく、実際は他の戦いと同程度の使用頻度で、ほとんどが足軽同士の戦いだったのかもしれない。というのも、信長記などの書物は後世の人達が書き記しているので、誇張があるのかもしれないのだ。とは言え、確定した証拠が無いから想像するのも楽しいわけで、長篠の戦いの流れをみていきたい。

 長篠の戦い(設楽ヶ原の戦い)の舞台となった設楽郷は周辺にくらべて低地になっている場所だったようで、それを利用して武田方から見えないように織田軍の軍勢を配置したようだ。
 私が当地を訪れた際も、確かにあたりは小高い丘陵地が多く、丘陵と丘陵に挟まれた土地は周りからは見えにくかった。信長はこれらの低地に3万の軍勢を配置したらしい。決戦の際は馬防柵の後ろの弾正山の背後の低地まで移動したのだろうか。徳川家康は「先陣は国衆が務める」という慣習により、高松山に陣を布いたようだ。そして馬防柵を構築した。

その20へ続く



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