決戦! 長篠の戦い その28
前回からの続き。
【書名】:「戦国大名」失敗の研究
【著者】: 瀧澤 中
【引用個所】:第1章 武田勝頼の致命傷
※引用個所は『 』を使用。
「武田家への不忠」で織田側に処刑された重臣
『 武田家を滅ぼした原因は、何であったろう。その原因をすべて勝頼にかぶせるのは酷であろう。信玄時代の武田はたしかに強かった。が、それは、相対的に織田や徳川が発展途上であったからであり、勝頼の時代には、織田・徳川ともに強大な力を得て、長篠合戦後は徳川単独でも武田に対抗できた。
むしろ、信玄が上杉との決戦にこだわり、西上が遅れたことこそを責めるべきである。が、これは「火事場あとの賢者顔」で、当時の信玄の立場から言えば、あれが精一杯であったのかもしれない。
勝頼の失敗が、北条との決裂であることは間違いない。そして、出兵を重ねた結果として、国力が疲弊し兵員の欠乏を招いたことは明らかである。
しかし、同時に考えなければならないのは、家臣たちのありようである。組織論はややもすると、リーダーに過大な責任や能力を求めるが、家臣もその組織で生きている以上、組織維持の責任の一端を担っているはずである。であるならば、たとえ多少気に入らない当主であっても、これをうまく支え、家を保持するのが家臣のありようではなかろうか。統率力ではなく、統率される側の力、である。
戦国時代は江戸時代と違って、主家に対する忠誠心はあまりない、と言われている。自分の身が滅びても主家を守る、という意識が、江戸時代ほどではなかったのはたしかだが、だからといって、やたらめったら主家を裏切っていたわけではない。織田信長のような中央集権的な大名はともかく、武田家を含めた他の戦国大名たちは、いずれも、独自の所領を持つ家臣たちが集まって、いわば集団安全保障体制で生き残りを図っていた。自分だけでは守りにくいが、集まれば守れる。そんな中で、自分が今、従っている大名家を少しでもよくしようとしなければ、最終的には自分が危うくなる。
なるほど、勝頼は当主としては生意気で、ちょっとばかり戦争が強いことを鼻にかけるイヤなやつだったかもしれない。だからといって、勝頼に協力せず、協力しないどころか裏切って、それで家臣の責任が果たせるのか。いや、主家を裏切って、生き残れるものかどうか。
最初に勝頼を裏切った木曽義昌は、のちに徳川家康を裏切って豊臣秀吉に与(くみ)し、その後に徳川に属するよう秀吉に命じられて、当然ながら家康から冷遇された。穴山信君はすでに触れたように不慮の死を遂げ、その子・勝千代が十六歳で亡くなると、穴山家は断絶になった。
その他の武田家重臣たちは、事前に裏切る約束がなかったこともあり、みな殺された。特に勝頼が最後に頼り、勝頼を見事に騙(だま)して裏切った小山田信茂は織田に捕らわれて、嫡男と共に処刑された。理由は、「武田家に対する不忠」。武田を滅ぼした織田側に、「武田家への不忠」を理由として処刑されたのだから、こんな皮肉なことはない。』
受け継がれた主従のたしかな絆
『 彼らはなぜ、武田家維持のために努力を続けなかったのか。組織は最初、一個人(創業的リーダー)を中心に勃興(ぼっこう)し、やがて、創業者の引退、もしくは死によって、個人ではなく集団指導体制に移る。この段階から、物事を決定するシステムを整備することで、創業リーダーに依存しなくても(つまり創業リーダーがいなくなっても)、組織を維持できる体制を整えるのである。
ただし、集団指導体制の中で意思決定するにも、リーダーは必要である。それが、形のうえであれ、創業家を維持する理由であり、創業家は重臣たちの「神輿」に乗ることによって、意思決定の要(かなめ)になっていく。やがて二代目でも傑出した人物は、意思決定システムを自分の思いのままに動かせるよう工夫し、創業者と同じような位置を保持、業績を上げる。
武田勝頼が傑出した人物であるかどうかは難しい議論だが、もし、戦国大名の優劣を領土の大きさで計るならば、父親の時代よりも所領を拡大し、あの激動の時代に、父没後十年間もその所領を(のちに漸減(ぜんげん)はしたが)維持し得たのであるから、凡将でなかったことはたしかである。とすれば、部下の役割としては、この凡将以上の当主をもり立て、国土防衛を図ることではなかったか。
勝頼は宿老から嫌われていたようだが、しかし、最後の段階になるまで、積極的な謀叛は企てられなかった。はたして、勝頼の失敗は勝頼個人に帰するものなのか。筆者は、信玄以来の宿老、一門衆の責任をこそ、もっと糾弾すべきであると考える。武田家に属した歴史の浅い国衆が武田を裏切り、風向き次第で強いほうに寝返るのは理解できる。しかし実際に武田家滅亡のきっかけになったのは、一門衆(つまり武田と血縁関係にあった)木曽義昌であり、武田家中が雪崩を打って裏切るきっかけになったのは、同じく一門衆の穴山信君の裏切りである。一門衆は、他家に比べて所領も待遇も、武田家の中で優遇されている。それは武田家を率先して守る盾になることを前提にしている。にもかかわらず、率先して武田を裏切った。この一門衆を断罪せずに、勝頼一人を責めるのは、歴史審判の公平を欠くと言えよう。
武田信玄の五女・松姫は、織田軍が総攻撃を仕掛けてきた天正10年2月、兄の仁科盛信(最後まで戦い抜き戦死)と高遠の城にいた。が、盛信の娘を託され甲府に逃げた。甲府では、武田勝頼の娘と、小山田信茂の娘を預けられた。
迫る織田軍。
松姫は幼い三人の姫たちを連れ、険しい山々を越えて、八王子に逃れた。三人の姫たちは、松姫が育てた。仁科盛信の娘は、残念ながら早くに亡くなるが、武田勝頼と小山田信茂の娘は立派に成長し、いずれも大名家に嫁がせた。勢力を誇った武田の一門衆たちが、陸続と武田を裏切る中、二人の兄(武田勝頼、仁科盛信)の娘のみならず、勝頼を死に追いやった裏切り者・小山田信茂の娘をも分け隔てなく育てた松姫。
八王子に庵を構えて尼となった松姫を慕い、多数の武田旧臣が八王子に集まってきた。いっさいの援助を断って、自ら畑を耕し縫物をして生計を立てた松姫だが、武田の旧臣たちが集ってきたことを、うれしく思わないはずはない。松姫は貧しい暮らしの中で、しかし「自分たちは守られている」、という感覚があったのではなかろうか。
兄・勝頼がついに実感することのなかった安堵感を、松姫は得た。悲惨きわまりない武田家の末路の中で、ほんのわずかだが、主従のたしかな絆を感じるエピソードである。』
以上、書籍【「戦国大名」失敗の研究】からの引用は終り。
小山田信茂はなぜ武田勝頼を裏切ったのか
ここで少し上述の小山田信茂について、以下の書籍を参考にしてみていきたいと思う。
【参考文献】:中世武士選書19 郡内小山田氏 武田二十四将の系譜
【著者】:丸島和洋
※引用個所は『 』で表示。
また、そろそろこのシリーズも終わりに近づいてきたので、最初にあらためて長篠の戦いの内容を簡潔にこの書籍から引用したいと思う。
『 天正3年5月1日、勝頼は三河長篠城を包囲した。ところがこの事態に、ついに織田信長が動いた。出陣した信長は14日には岡崎に入っている。18日、織田・徳川連合軍が長篠付近の設楽原(したらがはら)に陣を張った。両軍は三里を隔てて対峙し、鉄砲を撃ち合うなど、すでに小競り合いが始まっていた。
5月20日、勝頼は駿河久能(くのう)(現静岡市)城代今福長閑斎等に宛てて、信長・家康は後詰めに出てきたが、方策を失って逼塞(ひっそく)しているようだと強気の姿勢を全面に出した返書を出している(「神田孝平氏旧蔵文書」『戦武』二四八八他)。勝頼は終始強気であったようで、ここで信長との決着を着けようという気持ちが強かったとみられる。
しかし、家老衆の考えは異なっていたらしい。『甲陽軍鑑』によれば、小山田信茂は、馬場信春・内藤昌秀(まさひで)・山県昌景・原昌胤(まさたね)とともに「御一戦なさるる事、御無用なり」と訴えたが、勝頼は武田家の重宝「御旗(みはた)・楯無(たてなし)(鎧)」に決戦を行うことを誓ったという。御旗・楯無に誓うことは、武田氏においては絶対的な行為であり、以降誰も勝頼を諌めることができなくなったようである。
これに対し、信長は「馬防ぎの柵」を設けるなど万全の体制を敷いていた(『信長公記』)。『甲陽軍鑑』にも、織田方が「しゃくの木」を三重に設けていた様子が描写されている。
なお、武田軍の構成は一般にイメージされる「武田騎馬軍団」(ほぼ全軍が騎馬隊)ではなく、戦国大名として通常編成の軍隊であったと思われるが、『信長公記』は武田軍の戦術を「馬入(うまい)り」と記している。また永禄末期のものとみられる「武田信玄陣立書」にも、「馬之衆」という部隊の記載がある(「山梨県立博物館所蔵文書」『戦武』三九七二)。したがって、武田軍が騎馬部隊を編成しており、馬入りという戦法を得意としていたことは確かなようである。あまり知られていないが、武田軍や後北条軍は兵科別の編制を取っていたことが明らかにされている。
しかしながら、信長がしたような武田勢の騎馬への注意は、長篠の戦い以外ではみられない。このため、「武田騎馬隊」の存在そのものが議論になっている。その際、『信長公記』が馬上の巧者として特筆しているのが武田氏の譜代家臣ではなく、上野国衆の小幡信真(おばたのぶざね)勢であることは示唆的である。
おそらく、東国の戦いでは小規模の騎馬部隊による馬入りという戦法が盛んであって、後北条氏や上杉氏との戦いでは特に問題にならなかったのであろう。それが西国の織田信長にとっては不慣れな戦術であり、警戒を怠らなかったものと思われる。
5月20日戌刻(午後8時頃)、武田方が長篠城を攻略するために構築した鳶の巣山(とびのすやま)要害に向け、徳川家臣酒井忠次(さかいただつぐ)が攻め寄せ、21日辰刻(午前8時頃)に攻略した(『信長公記』)。酒井忠次はその上で、長篠包囲陣を打ち破り、籠城していた奥平信昌との合流に成功した。長篠城を包囲していた武田方は、北の鳳来寺を目指して敗走した。これは勝頼にとって大きな戦術ミスであった。『信長公記』は、勝頼が鳶の巣山に陣を張り続けていれば、織田方は手出しのしようがなかったと論評している。
設楽原の主戦場では、武田勢は山県昌景・武田信綱(しんこう)(信廉(のぶかど))・小幡信真・武田信豊・馬場信春が相次いで織田・徳川方の陣に攻め寄せた。しかし鉄砲を打ち立てられて、いずれも退却した(『信長公記』)。『甲陽軍鑑』によれば、小山田勢も徳川方と一競り合いし、敵勢を馬防ぎの柵際まで押し詰めたという。織田軍と異なり、徳川軍は馬防ぎの柵の外に出て戦っていたためである。
戦いは5月21日の日の出から、未刻(午後2時頃)まで延々と続いた。しかし攻撃の度に武田勢は消耗し、諸将は勝頼の旗本へ集まって鳳来寺の方角へ退却した。織田・徳川方はそのタイミングを見計らって追撃を加え、武田方の諸将を討ち取った。
長篠の戦いの結果、山県昌景・武田信実(のぶざね)・望月信永(のぶなが)といった重臣が多く討ち死にしたのである(『信長公記』他)。特に山県昌景は駿河江尻(えじり)(現静岡市清水区)城代として駿河・遠江の軍事を、馬場信春は信濃牧之島(まきのしま)(現長野市信州新町)城代として越中・飛騨方面との交渉を、内藤昌秀は上野箕輪(みのわ)(現高崎市)城代として西上野の軍政を担当していたから、損害は甚大なものであった。壊滅的といってよい。
6月1日、勝頼は駿府(現静岡市)の武田信友(のぶとも)(勝頼叔父)等に長篠の敗戦を伝えたが、穴山信君・武田信豊・小山田信茂・甘利信頼(あまりのぶより)以下の重臣はつつがなく帰国したと伝え、被害の小ささを強調した(「関保之助氏旧蔵文書」『戦武』二四九四)。しかし、駿河江尻城代の後任として穴山信君を配置するとも伝えており、影響の大きさは隠しようがなかったといえる。
小山田信茂自身も、6月に妻の兄である御宿友綱(みしゅくともつな)に宛てて書状を書き送った(『武家軍紀』『戦武』二五〇〇)。それによると、5月21日の午刻(12時頃)に決戦したが、不運なことに地形が悪く、先衆(先鋒)は利を失って散乱し、味方の錬士が少々敗死した。しかし御屋形様(勝頼)は問題なく帰国し、穴山信君・武田信豊・武田信綱もつつがなく帰国したと述べており、やはり損害の小ささを強調している。信茂自身は、勝頼の身辺を警護しながら退却したといい、まるで命に未練があったようで、面目を失ったとも述べている。本書状は漢文体で書かれるという異例なもので、偽作説が強いが、当時の武士の感覚を読み取ることは許されるだろう。』
織田、徳川、北条に攻められた際に、最後に勝頼が頼って逃れようとしたのが小山田信茂が統治していた郡内の岩殿城であった。ここで郡内の場所について大雑把に簡単に説明すると、現山梨県の河口湖・富士吉田方面から大月市、上野原市方面の領域である。甲府・勝沼方面から見た場合は、大月市の国道20号の笹子トンネルより東側の山梨県の地域、もしくは御坂峠を越えて河口湖~山中湖方面と説明することができる。既に引用した書籍に説明があったとおり、甲斐の国は現在は山梨県という一つの地域であるが、戦国時代の当時は同じ甲斐の国の中でも複数の国が存在する地域であった。つまり、武田家一つが存在していた訳ではなく、複数の国衆と呼ばれる領主達が統治していたのである。穴山信君や小山田信茂はその代表格であった。特に郡内は地形をみると分かるのだが、葡萄や桃で有名な勝沼地域や甲府盆地と峡谷で隔てられており、笹子トンネルを境に天気が異なっていることもある。そのため、当時の人間の移動手段から考えても、大きな山々を境に違う国が形成されていたことに違和感はない。
その郡内にある岩殿城への入場を拒み、勝頼を裏切った小山田信茂の心情はいかがなものであったのか。私はこの本を読んで、やはり信茂は進んで裏切った訳ではなかったのだと感じた。自分の国を守るため、そこに暮らす人々を守るため、致し方なかったのではないだろうか。武田信玄の直接の血縁者ならともかく、別の国を治めていた国衆であった訳である。それに本人が最後まで忠義を尽くそうと思っても、領民や家臣が反対したかもしれない。
信茂は上杉景勝との和睦に関係していたが、その和睦を結ぶ際に跡部勝資が上杉から賄賂をもらったとの噂があったようだ。その金の賄賂によって上杉景勝と不可解な同盟が成立した。当時の人々はこの甲越同盟をターニングポイントと評価していたようだ。信茂はこの賄賂に一切関わっていないようで、自分まで非難されてしまうのだろうかと慨嘆している。上杉景勝との同盟交渉に関与した自分まで名を落としたのではないかと心配したという逸話が生み出されたものと考えられている。
↑ 山梨県大月市にある岩殿城 ↑
信茂離反の評価
『 最後の最後で勝頼を裏切った信茂であるが、その行動はいかに評価すればよいのであろうか。
信茂の行動を「裏切り者」と非難するのは容易い。しかし、同様に勝頼を見限った木曽義昌(勝頼妹婿)も、穴山信君(勝頼姉婿・従兄弟)も、織田信長から厚遇を受けている。しかるに、後述するように、信茂は降伏を認められることはなかった。この差異はどこからきたのだろう。
まず注意したいのが、小山田信茂も、木曽義昌・穴山信君同様、武田氏の従属国衆であったということである。したがって信茂にとっては、自身の領国・領民を守ることが第一に優先されねばならない課題であった。これを実現するために、今までは戦国大名武田氏に従属し、その「軍事的安全保障体制」の保護下に身を置くことで、小山田家と郡内領の存続を図ってきたのである。
ところが、天正9年の高天神城落城以後の武田氏は、小山田信茂にとって必ずしも頼りになる存在ではなくなっていた。郡内領はたびたび後北条氏の侵攻を受けた。これに対しては、岩殿城に武田氏の援軍を派遣してもらうことで一応の対処はできた。しかし、天正10年の織田信長・徳川家康の侵攻に際しては、武田氏はなすすべもなく、拠点城郭は次々と開城していった。もはや武田氏の「軍事的安全保障体制」は機能不全に陥っていたのである。
そうした状況下で、信茂が自領を維持するには、武田氏を離反し、新たに強大な大名権力として現れた織田信長に従属するしかなかったといえる。つまり小山田信茂は、国衆家当主として当然の選択をしたのであった。それは、木曽義昌・穴山信君と同様の行動であったといえる。
しかしながら、木曽義昌・穴山信君が事前に織田・徳川氏に内通していたのと異なり、信茂の離反は唐突なものであった。そして織田信長は信茂のことを「家老の者」と理解していた(『信長公記』)。
信長から見れば、信茂は従属国衆ではなく、あくまで武田家の家老であった。小山田氏は武田家の御譜代家老衆として、武田家中に包摂された存在と見なされていたのである。戦国大名の本国内国衆は、徐々に譜代化していく傾向があるとされており、小山田氏も同様であった。ましてや他大名からみれば、信茂の立場は武田家の家老にしか映らなかったのだろう。
そして事前の内通がなかったこと、武田氏滅亡直前の離反であったことも相俟って、信茂の裏切りは家老の不忠行為と見なされてしまったのである。』
現在の大河ドラマの主人公である明智光秀。彼も最後には有名な「本能寺の変」と呼ばれる一連の行動で信長を裏切った。そこにはどのような心情があったのか。一説には長篠の戦いの後に、信長に苦労をねぎらう言葉をかけたところ、戦いに参加もしていないくせに何様だ、と聴衆の面前で罵倒されたという説がある。佐久間信盛と同様、恥をかかされた事が一つの原因かもしれない。そして信長の粘着質な気質を恐れ、一生このままの状態が続くと恐れた結果、本能寺の変につながったのかもしれない。
武田家を裏切った家臣たちにも、裏切るそれなりの事情があった。当時を生きた人々の心を思うと、一概に批判することもできないのである。
その29へ続く
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