決戦! 長篠の戦い その26
勝頼は父信玄と比較される事が多い。では信玄はどのような人物だったのか。そして勝頼の苦悩と長篠合戦での敗因とは如何なるものだったのか。長篠決戦後はどうなったのか。今回はそのあたりを別の本で紹介しながら見ていきたいと思う。
今回の内容の大部分を下記の本より参照、引用している。
書名:「戦国大名」失敗の研究
著者: 瀧澤 中
引用個所:第1章 武田勝頼の致命傷
※引用個所は『 』を使用。
偉大な父
『 武田信玄に限らないが、乱世では個人的な魅力や能力が、組織の統率に絶大な影響を与える。特に信玄支配下の領内は、武田家一門と譜代(ふだい)に加え、各地域の「国衆(くにしゅう)」と呼ばれる、独立した武将たちによって支えられていた。あとに触れるが、一筋縄で統治のできる国ではなかった。だが、信玄はそれをやってのけた。領国を拡大させた戦国大名は、新たに支配下に入った土豪や、戦いのため人材や年貢を提供する領国民たちを統率することに長(た)けた者が多い。特に、武田信玄は一種のカリスマ性を持った大名で、いまだに旧甲斐国地域では、「信玄公」と、「公」の尊称をつけて呼ばれることが多い。信玄がそう思われる理由はいくつかある。有名な「信玄堤(づつみ)」をはじめとする公共事業は、地域の繁栄に寄与し、その感謝の念がいまだに続いている。さらに、信玄と同時代の甲斐の民から見れば、年貢の軽減も挙げられよう。六公四民や七公三民が当たり前の当時、信玄治世下では五公五民という、戦争のない江戸時代とほぼ同じ課税で政治が行われた(時期によって差異はある)。税が軽くできた背景には、金をはじめとする鉱山開発などがあり、「産業育成+税の軽減」という、バランスのとれた政治が行われていた。』
カリスマ
『 武田家中についてはどうか。一門衆(近い親族)、譜代衆(親族関係+数代にわたる武田家家臣)、国衆(譜代ではない各地域の武士団)がある。これに、新たに占領した地域の土豪などを先衆として組み入れ、組織ができ上がっていた。国衆は、一門衆や譜代衆の配下に入り、「寄親・寄子」制をとっていた。つまり、信玄を頂点として、一門衆や譜代が従い、さらに属する形で国衆がいるという、ピラミッド型の組織であった。ただし。一門・譜代はもちろん、国衆や先衆も、元々その地域に根を張る土着性が高く、さすがの信玄も、領内隅々まで自分の威光を浸透させるのに苦労している。それゆえに信玄は、さまざまな法度(はっと)や軍法を出して、統率に努めた。税制にしても法度にしても、それを発令する者がどうしようもない大名ならば、誰も命令に服さなかったであろう。
カリスマの元々の意味は、「神の賜物」。「他人が近づき得ないような超自然的・超人間的資質」とされるが、わかりやすく言えば、「その人の前に行くと、普通でない感情(威圧感や強い親近感、尊崇の念)を抱く」ような人間である。カリスマには4つの類型が見られる。
1つは、偉い人の子孫、名家の出、という「血のカリスマ」で、本人の能力は二の次である場合が多いが、もちろん普通の家庭と一緒で、できの悪い二世もいれば、先代を越える二世もいる。
2つ目は、地位によって得られるカリスマ。たとえば現職の総理大臣や財界トップが持つオーラのようなもので、彼らは現実に力を持っているから、自然な反応と言えよう。
3つ目は、英雄のカリスマ。現職でなくても、偉大な実績を残した者に対する感情である。東郷平八郎や吉田茂、松下幸之助などが当てはまる。
4つ目は、異能のカリスマ。常人では持ち得ない能力を発揮する人で、軍の指揮官で言えば、織田信長やナポレオンなどが挙げられている。が、この手の人物には、時に常軌を逸した理解不能な部分があって、隠れてわからない部分があるから、人は神秘的に感じるのである。宗教指導者にもこのケースが当てはまる。
武田信玄は、名門武田家の嫡男(ちゃくなん)として「血のカリスマ」を持ち、現職の甲斐(及び周辺国)の支配者であり、戦勝の実績を持ち、軍事・行政にわたって才能あふれる人物で、さまざまなカリスマの要素を持っている。信玄がなぜカリスマ性を持ち、家中を統率し得たのか、具体的に見ていきたい。』
信玄の力の背景
『 第一に、戦争に強かった。デビュー戦とも言うべき海の口の戦いでは、敵を油断させて大勝利を得た。その勝ち方は、仲の悪かった父親の武田信虎を嫉妬させるほどであった。信玄最晩年には、信濃・西上野(こうずけ)・飛騨・駿河、そして三河や遠江(とおとうみ)の一部まで支配下に置いたのである。戦って勝ち続けることが、家臣からの無条件の信頼につながったことは言うまでもない。
第二に、素直に家臣からの意見に耳を傾ける度量があった。これは情緒的な話で学問てきには軽視されがちだが、信玄は若年の一時期、遊興にふけり、政治を顧(かえり)みなかった。ちょうど父・信虎を甲斐から追放したあとで、その罪悪感からか、明け方まで騒いで酒色に溺(おぼ)れ、昼まで寝るような毎日を過ごした。あるいはまた、僧を集めて詩作にふける、といった具合である。これを、宿老である板垣信形(のぶかた)が諌(いさ)めた。
「こんなていたらくでは、追放した父君・信虎公よりも百倍も悪い大将です」
普通、血気盛んな若い領主なら、「何を言うか!」と怒りそうなものだが(当時信玄は23歳)、しかし、この諫言(かんげん)を受け入れ、以後、名将としての道を歩むことになる。
第三に、信玄は家臣団から神輿(みこし)として選ばれたということ。信玄の父・信虎は、気に入らない家臣や領民をいきなり斬り殺すような傍若無人(ぼうじゃくぶじん)があり、家臣の信頼を失った。信虎から嫌われていた信玄も、廃嫡(はいちゃく)のおそれがあった。そこで信玄を頭領として信虎追放が行われたのである。つまり家臣団にしてみれば、自分たちが選んだ頭領である以上、これを支える責任があったのである。
第四に、度重なる戦勝によって、諸国に名を知られ、そのおかげもあって、外交を有利に進めることができた。領土拡大によって近隣諸国は甲斐の武田を無視できなくなり、積極的に外交関係、同盟関係を持つ。北条や今川との同盟は父・信虎以来のものだが、信玄時代にはこれに加えて、たとえば織田信長がしきりと接触してきて、婚姻関係を結んだ(信長の養女と信玄の四男・勝頼との結婚など)。
戦勝→領土拡大→同盟強化→他国での名声→領内での高評価。こうして、信玄の影響力は増幅され、逆に信玄を失えば、「おやじさんの影響力なくしては、力は半減してしまう」という状態になったのである。』
勇敢な息子
『 自分の影響力を知っていた信玄は、自身の死によって何が起きるのか予測していた。それは、近隣諸国による武田領内への侵入である。侵略を避けるには、自分が死んだことを隠すのが、応急処置としては一番よい。跡を継ぐ武田勝頼について、おそらく信玄は自分ほどの器量とは見ていなかった。だから、時間を稼いで体制を整えさせようとしたのである。
諸説あるが、勝頼は、勝頼の長男・信勝が成人になるまで、その「陣代」として家中を取り仕切る、ということになっていた。つまり正式な信玄の跡目ではなく、あくまで次の当主が大人になるまでのピンチヒッターである。勝頼は天分15年(1546)、信玄が滅ぼした諏訪頼重(すわよりしげ)の娘と、信玄との間に生まれた。信玄の長男・義信が謀叛(むほん)を企て自刃するまでは、「諏訪勝頼」を名乗っていた。つまり、勝頼が武田家を相続する可能性は低かったのである。武田家中にすれば、勝頼は本流ではなく、積極的に歓迎される人物ではなかった。信玄が勝頼を跡目にせず「陣代」としたのは、家中への遠慮もあったろう。同時に、勝頼への家中からの風当たりを考慮したと考えられる。
しかし、このことをもって勝頼が「頼りにならない凡将」ということにはならない。なぜなら、信玄が生きている当時から勝頼は戦陣にあって、数々の勲功(くんこう)を立てているからである。永禄6年(1563)の上野・箕輪(みのわ)城攻略を初陣とし、信玄とともに各地を転戦。徳川家康を破った三方原(みかたがはら)の戦いでも大将として前線指揮をとっている。勝頼を凡将と見るのは、勝頼の代に武田家が滅亡したという結果から推測したもので、あまり論理的とは言えない。勝頼は信玄と同じく、戦争には強い大将だったのである。現に、武田家が最も多くの領土を持ったのは、信玄の死後、勝頼の代になってからである。
さらに加えて言うならば、大名が合戦、城攻めをするのは、大将一人で行うわけではない。部将たちを指揮し、兵を動かし、勝利を得る。つまり、「誰がこんなヤツのために戦うものか」と思われるような大将であったならば、合戦での勝利などできるわけがないのである。むろん、家臣たちによって主家は、生活の拠り所であり、その当主が多少だめでも支えることは支える。しかし、今川義元の跡を継いだ今川氏真(うじざね)も、豊臣秀吉の甥である小早川秀秋も、先代を越える領土を得るなどということはまったくなく、家臣たちは凡庸(ぼんよう)な当主を見限っている。そういう意味で、武田勝頼は凡将ではなく、まさしく信玄の血を継いだ「勇敢な息子」であった。ではなぜ、武田家は「勇敢な息子」勝頼の代に滅びたのであろうか。』
歓迎されない権力
『 すでに触れたように、勝頼は父・信玄が滅ぼした諏訪頼重の娘を母として生を受けた。しかも、信玄の四男である。もし、長男の義信が信玄に謀叛を企てなければ、間違いなく「一門衆(親族)」という家臣の一人となっていたであろう。それが、長男の死、次男は盲目ゆえに出家、三男は早世したために、武田家跡継ぎの順番が回ってきたのである。この、予想せざる権力移行に、家中の一門衆や譜代衆は反発する。反発の理由はいろいろとりざたされているが、一門衆の穴山信君(のぶただ)や木曽義昌らの立場に立てば、
「いくら信玄公の血を継いでいるといっても、所詮(しょせん)は他家を相続した傍流(ぼうりゅう)ではないか。自分たちと立場はそう違わない」ということは大きかろう。
本当は自分と身分の同じやつが、自分たちの上に立つ。これは愉快ではない。さて。信玄が家中を統率した理由について、①戦争に強い、②素直に家臣からの意見に耳を傾ける度量、③家臣団から神輿として選ばれた、④戦勝を背景にした外交力、という指摘をした。勝頼は①戦争には強かったが、③家臣たちから神輿として選ばれたわけではなかった。だからこそ、遮二無二(しゃにむに)でも戦いに勝って、宿老たちに自分の実力を認めさせたかったのである。そのため、②の「素直に家臣からの意見に耳を傾ける度量」は、小さくなってしまった。
私は、勝頼は「権力の本質」を知らなかったのだ、と思えてならない。権力とは、簡単に言えば、統制を維持する力である。たとえば、警察。泥棒や交通違反を取り締まるのは、そうすることによって社会を安定させ、安心して生活をおくるためである。警官は拳銃を携帯しているが、指をわずかに動かすだけで人を死に追いやることができる。そこまで強力な武器を携帯するのは、治安を乱す者に断固たる措置をとるためである。その警察は、法律によって行動するが、法律は日本国という国家が保証している。もし国民が、日本国という国家そのものを否定したら、警察が力を行使する正当性も失われる。もっと簡単に言えば、権力を行使される側が、権力を認めなかったら、権力は有名無実化するのである。』
「伊奈四郎」に隠された苦悩
『 勝頼は残念ながら、権力の頂点に上がった段階で、周囲から「この人のために」という「歓迎される権力者」ではなかった。つまり勝頼から権力を行使されたい、とは思われなかった。少なくとも、父・信玄の時とは違っていた。だから、一応勝頼の言うことはきくが、心服しない。心服しないから、勝頼を批判的に見る。戦いに勝っても評価が高まらない。評価が高まらないから、もっと戦いに勝って心服を得ようとする。すると、積極攻勢に出て勝っても損害が増えて、逆に批判が集まる・・・・。
こういう悪循環は、新社長が焦って実績を積み上げしようとし、先代からの役員が協力的でないという、現代でもよく見られる状態である。もちろん、勝頼の側にも、斟酌(しんしゃく)してやらなければならない事情があった。勝頼は別名、「伊奈四郎」とも呼ばれていた。諏訪頼重の娘と信玄の間に生まれ、「諏訪勝頼」を名乗り、一般には「勝頼は諏訪氏を継ぐ予定だったが、信玄の長男の死去などに伴って武田家を継いだ」と解釈されている。
それは大枠では事実である。しかし「諏訪」勝頼を名乗りながら、勝頼が武田家を引き継ぐまでの間、勝頼の支配した地域は高遠(たかとお)・箕輪領に限定されているのである(平山優「長篠合戦と武田勝頼」ほか)。つまり、諏訪地方を統治していない。高遠はすなわち伊那地方であり、ゆえに「伊奈四郎」と呼ばれていたのである。
武田家の跡取りではなく、他方、諏訪の実質的な支配権も持たず、実に中途半端な状態で、内心忸怩(じくじ)たる思いがあったであろう。母方の諏訪氏という名族の誇りと、周囲が崇(あが)める武田信玄の息子である、という自負が、勝頼に必要以上の「認めてほしい」という欲求をもたらすことになる。』
「長篠合戦」の単純で決定的な敗因
『 武田家滅亡のきっかけと言われる天正3年(1575)の、長篠合戦。巷間(こうかん)、勝頼の長篠合戦での無茶な積極攻勢が武田家惨敗につながった、勝頼はなんと愚かな武将か、という説が流布(るふ)されている。ここでいくつかの誤解を解かねばなるまい。
第一に、勝頼はたしかに長篠・設楽ヶ原(したらがはら)における戦いで積極攻勢を命じ、惨敗したが、当時の合戦のありようで考えれば、あの場面で突入することは特に無茶でも無謀でもなく、ごく普通の判断であったということである。
われわれは「武田惨敗」という結果を知っているから、結果から見て勝頼を愚かと断定するが、柵を設けた程度の敵に対して、突入して蹴散らそうと考えることに、なんの不自然さもない。
第二に、鉄砲を軽視したために惨敗した、という説があるが、これも少し考慮が必要である。武田家は信玄の代からずっと、鉄砲の確保を本気で行っていた。たとえば、合戦に持ってくるべきものを事前に家臣たちに指示するのだが、その中に鉄砲と射手が明記されており、また鉄砲を多く持ってくれば、他の軍役を軽くすることも示されていた(宇田川武久「鉄砲と戦国合戦」)。もちろんそれが、織田信長のようなスケールではなかったとしても、「軽視していた」というのは間違いで、重視はしていたが揃えきれなかった、というのが事実に近い。
織田・徳川軍と比較して鉄砲を十分確保できなかった理由は、地理的な問題や職人の確保などいろいろあるが、決定的なことは、経済力の違いである。織田家は徳川家も含めれば、武田のおよそ三倍以上の所領を持ち、経済規模はそれ以上格差があったと考えられる。この経済力の差が、兵器近代化に影響した一因であった。
誤解の第三は、勝頼は功名心のために部下の犠牲をいとわず攻勢をかけた、という点。すでに触れたように、武田家の中で権力基盤が弱く、これを確立するには合戦で勝利を重ねることが重要だと勝頼は考えており、単なる功名心、父親を越えようとする慢心ではない、と筆者は考える。なぜなら、勝頼は合戦での成果はもちろん、領国経営においても優れた手腕を発揮し、信玄堤のような治水・利水も行っていて、とても暴君などとは言えないのである。さらに、家臣との軋轢(あつれき)はあったにせよ、気に入らないからといって、勝頼の祖父・信虎のように家臣を手打ちにするような恐怖政治も行っていない。
では何が、長篠合戦の敗因なのか。
それは、鉄砲確保のところでも触れた、経済力=領国の大きさ=兵量差、であった(長篠合戦では、武田が1万5000、織田・徳川が3万8000)。単純だがしかし、決定的な要因であった。実は勝頼にも敵の兵力情報は入っていた。が、実際に対陣してみると思ったほどでもない。これはいける、と踏んだのである。
しかし信長は、多くの兵を窪地に潜ませ、大軍であることを隠していた。勝頼は父・信玄から、合戦だけではなく情報収集なども命じられてやっており、決して情報を軽視したわけではない。が、長篠合戦までの推移があまりにも連戦連勝であったがために、油断と慢心が生じていた。勝頼は、奥三河や美濃にまで進出してことごとく勝利し、特に、父・信玄ですら陥落させ得なかった高天神城(たかてんじんじょう)を落とすに至って、決定的な自信を得ていたのである。』
その27へ続く
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