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決戦! 長篠の戦い その27
( ↑ 写真は甲州柳沢峠(山梨県)の頂上からの写真。晴れていれば富士山が見える。このような峠の道路を車で通る時にいつも思うのだが、険しい道に道路を建設する人間の技術はすごいなぁと感心してしまう)
前回からの続き
(書名:「戦国大名」失敗の研究(PHP文庫) 著者:瀧澤 中 より)
引用個所は『 』で表示。
合戦の現場に持ち込まれた派閥闘争
『 普通、どんな組織でも「それはまずい」、と忠告したり諌(いさ)める人物がいるもので、武田家でも、穴山信君や小山田信茂、山県昌景(やまがたまさかげ)、馬場信春らが攻撃を思いとどまらせようとした。
これに対し、勝頼から抜擢(ばってき)された長坂釣閑斎(ちょうかんさい)や跡部大炊助(おおいのすけ)らが勝頼の積極攻勢を支持。「勝頼の愚かな側近たちが、勝頼におべっかを使って、攻撃が決定した」ということになっているが、ここでも検討が必要である。攻撃をやめるべきと主張したのは、勝頼を常に批判的に見てきた宿老たちで、攻撃を主張したのは勝頼とその側近。勝頼派対反・勝頼派という、派閥争いが現場に持ち込まれた。
勝頼派にとってみれば、ここで乾坤一擲(けんこんいってき)の戦いを挑み、宿敵・織田信長と徳川家康を駆逐(くちく)すれば、武田の勢威は決定的となる。それは勝頼の権力基盤を盤石にし、ひいては勝頼派である自分たちの地位も安定する。対する反・勝頼派は、このままいけば武田は負けるかもしれない。仮に勝ったとすれば、勝頼は圧倒的な支配権を確立し、もはやわれら宿老の押さえはきかなくなる、ということに。
いやそんなことはない、宿老はみんな武田家の将来を思って、お家大事で諌めたのだ、という可能性はもちろんある。しかしあとで触れるように、武田家を裏切り滅ぼしたのは、この時攻撃を止めようとした穴山信君や小山田信茂ら、反勝頼派の一門・譜代衆である。本当に武田の家が大事なら、勝頼を廃嫡して別に主君を立てればよい。かつて信玄が家臣たちに支えられて、父・信虎を追放した時のように。それもせずに、武田滅亡の危機に際して率先して武田を裏切ったのである。彼らが、武田家よりも自分の家を保持することが最優先であった何よりの証拠である。
長篠合戦は武田家が滅ぶ大きな要因の一つになったが、滅びるまでになお七年の歳月を要した。家中の不和は武田家を内側から弱体化させたが、それでもなお巨大な所領(推定で130万石)や豊富な鉱山資源を持ち、信玄以来の強兵というイメージを保ち続けた武田家。しかし、大きな問題が、真綿で首を絞めるように武田家を苦しめることになる。』
信玄最晩年の外交
『 昔も今も、国は内政によって衰え、外交によって滅びる。内政の失敗には、まだやり直しがきく。経済政策や教育行政、社会保障政策などは、間違いにきづけば、改正してやり直せる。しかし外交は、一つの判断ミスで国を滅ぼすことがある。
戦国時代の同盟は、それこそ自国の生死を賭けた高度な政治判断が必要で、へたな相手と組めば、滅亡を招いた。たとえば、浅井長政は織田信長の妹・市をめとって織田家と同盟を組むが、やがて家中の動きもあって、信長を裏切り、朝倉義景と同盟を組んだ。浅井長政自身は信長に対して親近感を抱いていたようだが、浅井家の中には、それまで仲のよかった朝倉家と対立することに感情的な違和感があり、また、新興勢力である信長への侮蔑(ぶべつ)も多少は含まれていて、越前の朝倉を攻めている最中に、「今、裏切れば信長を殲滅(せんめつ)できる」と目先の利益を優先した。信長は挟み撃ちに合う危機を乗り切って、浅井・朝倉を姉川合戦(元亀元年・1570)を経て滅ぼした。
では、武田勝頼の外交とはいかなるものであったのか。
勝頼外交の最初は、信玄の喪を伏せ、信玄があたかも生きているように装うことであった。それによって時間を稼ぎ、信玄亡きあとの武田家体制を築かせる、というのが信玄の遺志でもあった。信玄の病気隠居は当初、疑いの目をもって見られてはいたが、それでも他の諸大名が信玄の死を確信するまで半年以上の時間がかかっている。この間勝頼は、信玄の花押(かおう)を押した判物を多数発給しており、また見舞い客があれば、信玄の弟・武田信廉(のぶかど)を影武者に立てて対応した(花押については、信玄は生前この日のあることを予測して、数百枚の、花押だけ書いた紙を用意したという説がある。が、筆者は違うのではないか、と考える。なぜなら、勝頼以外の人間が勝手に信玄の手紙を発給する可能性が出てくるわけで、そんな不用心なことを、信玄がやるとは思えない。おそらく右筆(ゆうひつ)か誰かが必要に応じて、本物そっくりに書いたのであろう)。
やがて勝頼は、自身で本格的な外交を展開する。
といっても、基本的には信玄晩年の外交方針を堅持し、それを進展させた。信玄は当初、織田信長との同盟を推進し、北信濃攻略など、北東方面に進出していった。信長にとっても、尾張から美濃、そして西方に向かうにあたって、最大の脅威は東の背後にあった武田信玄であった。信長と信玄の利害は一致していたのである。
すでに触れた、信長養女と勝頼との婚姻や、信玄四女・松姫と信長長男・信忠との婚姻などは、その一つの例である(松姫と信忠の婚儀は、武田・織田が手切れとなって実現せず)。しかし、西方に野望を燃やす信玄は、反・信長に転じる。本願寺や浅井・朝倉、上杉や北条、毛利など、信長の脅威にさらされ、足利将軍義昭の呼びかけに応じた大名と同調した。これが信玄最晩年の状況であった。
もしこの状態が続いていれば、あるいは勝頼の積極攻勢は信長を圧迫したかもしれない。だが。勝頼が武田家の実質的当主となって数ヶ月のうちに、浅井・朝倉は滅び、本願寺は信長と講和した。つまり、「反・信長同盟」は事実上崩壊していたのである。にもかかわらず、勝頼はすでに述べたように織田・徳川殲滅を指向して、遠江・三河・尾張に侵攻し、天正3年、長篠合戦に挑み、敗れるのである。』
勝頼外交最大の成果は最大の失策
『 長篠合戦の敗戦後、勝頼にはどんな選択肢が残っていたであろうか。さらに打って出て信長を破るか、北条らと同盟を強化して信長からの侵略に慎重に対応するか、あるいは信長と同盟するか、そのいずれかであった。武田勝頼は、北条との同盟を強化しつつ、織田・徳川に対抗する道を選んだ。前述の「家中での権力基盤強化」のためにも、織田・徳川打倒は至上命題になっていた。
外交が国内での勝頼の立場強化のために利用されることになった。もちろんこの段階で織田との和解が可能であったかどうかは疑問だが、北条との同盟は、「信長との対決姿勢を崩さずに、安全保障を確立できる」という利点はあった。近年でも、国内の不満をそらすために外交で得点を稼ぐ、あるいは特定の国との間に危機的状況を演出し、自身の立場を強化しようとする権力者はあととを絶たない。いかに、外交問題が国内問題とリンクしやすいか、ということである。勝頼はそれでもまだ、冷静に外交関係を確立しようとした。
北条との甲相(甲斐・相模)同盟は、信玄時代から結ばれたり破られたりしているが、甲斐・信濃・駿河を中心に展開する武田家にとって、関東の北条は何よりの同盟相手であった。勝頼は、先年没した妻(信長の養女)の代わりに、北条氏康の娘をもらい、同盟が成立。その後しばらくは北条との同盟がうまく作用して、信玄亡きあとの不安定要素は徐々に薄らいでいった。
天正6年(1578)、上杉謙信が没した。実子のなかった謙信の跡目争いが、越後で起きる。二人の養子、景虎と景勝の争いである。景虎は北条氏康の子で、景勝は長尾政景の子である。北条氏政は、上杉の内紛調停を武田勝頼に依頼し、勝頼はそれに応えて越後に向かう。北条が期待したのは、もちろん景虎に上杉家を継がせることであったが、とりあえず当初勝頼は、中立の立場で動いていた。が、しかし。上杉景勝は勝頼に対して、「これからあなたの支配下に入ります。ついては、信越国境の五箇村を差し上げます」と言ってきたのだ。勝頼は、乗った。乗ってしまった。
父・信玄が五度も戦って完勝し得なかった上杉が、向こうから膝下(しっか)に入りたい、と申し出たのである。もちろん、北条をバックにした景虎に勝つために、景勝は武田を取り込もうとしたのである。だが、勝頼からすれば、まさに棚ボタの話であった。信玄時代の宿老たちから認められ、国内の権力基盤を確立させたい勝頼としては、くらくらとめまいのするような申し出であったろう。そして天正7年(1579)3月、中立的立場をとっていた勝頼は景勝の側に立ち、景虎は自害して、上杉の跡目は武田勝頼の肩入れした景勝が継ぐことになった。
勝頼の、外交的勝利である。だが、これこそ武田家を滅ぼす最大の原因となるのである。上杉景勝を上杉家の当主にする、ということは、自動的に景虎に敵対することになる。景虎を敵に回すということは、景虎の兄である北条氏政を敵にする、ということ。勝頼は、上杉景勝を手に入れて、それと引き換えに北条氏との同盟を失ったのである。』
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「上杉との同盟と三国同盟」~「閉じこもり戦略は可能だったか」~「織田・徳川同盟と日米同盟」~「深刻だった将校の補充」まで
さて、ここから先の途中個所は、全てを引用するのではなく私が内容をまとめたいと思う。
著者は、武田の上杉との同盟を評価する論調もあるが、武田が滅びる時に上杉はこれを助けることができなかった。これを軍事同盟と呼べるのかと疑問を呈している。さらに話は武田が滅んでから358年後の1940年の日独伊三国同盟に及ぶ。これも軍事同盟でありながら日本は独伊と軍事支援を互いにやれず、この同盟によって米英からは敵対視された。日本に何の利益をもたらさず、米英を敵にまわした愚策中の愚策であったと述べている。欧州で圧倒的な強さをみせていたドイツに「バスに乗り遅れるな」と同盟を強く推す世論が形成され、大戦略など持ち合わせずに目先の利益を追求して、結果対米英戦へと大きく舵が切られ、日本は敗戦を迎えたのだった。
だからといって筆者は「米英は正しい国」などとは微塵にも思っていない。米国では人種差別に根差した排日運動により、多くの日本人や日系人に危害が加えられた。また当時、世界中に植民地を持って各国を支配していたイギリスや、大虐殺を行って植民地であるフィリピンの独立運動を弾圧したアメリカが、倫理的に日本より「偉い」わけがない。
続けて著者は、当時の気分として、米英を駆逐したい気持ちは、わからないでもないと言っている。日本は開戦寸前に仏印(仏領インドシナ)へ進出し、開戦後にはシンガポール・マレーシア(英領マレー)、香港、蘭印(オランダ領インド)、英領ビルマ、フィリピン、インドの一部を占領、もしくはその一部に進出するが、これらはすべて、米英やオランダなど、欧米列強が植民地支配していた地域である。日本を取り巻くこれら欧米の植民地とそこに駐留する欧米の軍隊に、日本が脅威や屈辱を覚えたとしても不思議ではない。
しかしながら、外交・安全保障は腹が立った、不愉快だ、といって「気分」で断交したり攻撃するのは自滅の可能性を高めると述べている。自国を守り、自国の主張を通すには、経済や文化、国民の質、国防力を確立し、同時に、足らざる部分を同盟で補うことで、安全は保持される。これは、基本的に戦国時代も同様であると主張している。
さて、勝頼は北条との同盟が切れたため、北条に対向するために常陸(ひたち)の佐竹氏に同盟を持ちかける。勝頼は天正7年秋から翌年にかけて徳川家康と戦いつつ、北条の領内に攻めこむという消耗戦を繰り広げた。北条との同盟を失った段階で、勝頼は戦力を失った。
これは、勝頼が長篠の戦い後に国内にじっとしていれば良かったという事にはならない。著者はそれは不可能だと言っている。甲斐と信濃の一部の守りを固めたとしても、駿河や三河や伊豆などの所領を奪われると、税収も減り、動員できる兵力も減る。領土を奪われれば武田家中の統率はとれなくなる。武田家内における権力基盤は、戦って勝ち続けることで維持されており、負ければ求心力は失われる。それにもっと大きな問題は、たとえば駿河の武田領は一門衆の穴山信君が領しており、駿河放棄はイコール、武田家内でも抜群の実力者である穴山信君を見捨てることにもなってしまい、現実的には不可能であった。
外交の失敗は、やがて国を滅ぼすことになる。
さらに、著者は戦国時代の外交で特異なケースとして、徳川家康の「対織田・基軸外交」に触れている。織田信長という強力な、表向きはパートナー、実質的には隷属(れいぞく)に近い同盟は、変転の激しかった戦国時代において、奇跡的なほど一貫した安全保障関係を保った。著者は戦後の日米同盟を取りあげ、徳川家康の外交はまさに織田家との「日米同盟」であり、大きな犠牲を払いながら、しかし利用できるところは利用して、独立を維持していたと述べている。
米国の力は衰えてきているものの、日米同盟の本質は、いずれの時期にも変わらない要素がある。
第一に、日本は有事に米軍の支援を想定し、国土防衛を図る。
第二に、日本は米軍の影響力を利用しつつ、安全保障を図る(抑止力)。
第三に、米国は日本を足掛かりに、アジアに安全保障上の影響力を誇示する。
第四に、日本は米国と協調しながら、世界への発言力を確保する。
第五に、日米ともに、同盟関係を基盤に経済的利益を図る。
徳川は、北条や武田など織田家以外とも同盟を結んだ時期もあるが、織田・徳川基軸外交は変わらなかった。一時的に利益になるからといって、織田との関係を反故(ほご)にするということはなかった。
家康のこの姿勢については同時代の大名たちからは「律儀者」と見られたが、もちろん家康の実態は、律儀者などではない。裏切りも、主殺し(のちの豊臣家攻略)もやってのけるしたたかさを持つ、きわめて合理的な政治家である。
日本が戦後、日米同盟を基軸に据えたのは、アメリカが好きだとか、アメリカに対して忠義を尽くすとか、そんなことではない。ソ連や共産中国が極東アジアで大勢力を誇る中、日本は再び強大な軍備を持って対抗するのかどうか、という選択を迫られていた。吉田茂は戦後の日本の弱点補完を日米同盟で果たそうとした。しかし再軍備を徹底的に拒否したことで米国への依存度が高まった、米国の戦争に巻き込まれるという批判や危惧を抱く人も多い。織田信長に従属した徳川軍も常に戦いの最前線に立たされて、大きな犠牲を払った。徳川家中には不満を訴える者もいたが、それでも家康が同盟を維持したのは「織田・徳川基軸」以外に、徳川を安定維持させる相手がいなかったからにほかならない。
少なくとも天正7年頃の武田勝頼にとって、北条は基軸外交の相手であったはずで、代替わりして間もない、領内に多くの不安な材料を持つ上杉景勝よりも、北条ははるかに安定した同盟相手であったと思えてならない、と著者は述べている。
武田家の斜陽は、急速にやってきた。
まず、天正10年(1582)1月2日、勝頼の妹が嫁いでいる木曽義昌の謀反が皮切りで、2月3日には織田信忠が伊那方面から、徳川家康が駿河方面から、総攻撃を開始した。この時、勝頼の従兄弟である武田信豊が木曽義昌討伐に向かうが、織田信忠の加勢を得た木曽軍に敗れ、早々に撤退する。
さらに、2月29日。武田家最大の実力者であり、先代・武田信玄の信頼も厚く、信玄の姉をめとっていた一門衆の穴山信君が、家康に降伏。駿河・江尻城を明け渡した。それは戦いに敗れたのではなく、事前に(おそらく1年近く前から)内通していた結果だった。同時期に、北条は駿河に侵入。最も恐れていた、東西からの挟撃に遭って、勝頼はどんどん追い詰められる。
3月2日、高遠城が陥落。わずかな城兵でありながら見事な抵抗を見せたのは、勝頼の弟・仁科(にしな)五郎盛信であった。
3月3日、勝頼は建設途中の新府城に火をかけ、甲府から、重臣・小山田信茂のいる都留(つる)郡・岩殿城に向かう。が、小山田信茂は勝頼を裏切り、勝頼一行は岩殿城に入れず。
3月7日、織田軍、甲府占領。
3月11日、勝頼一行は天目山(てんもくざん)で自害。武田勝頼は36年の生涯を、妻や子たちと共に閉じた。
ちなみにこの時、勝頼と死を共にした夫人は北条氏政の妹で、14歳で嫁してこの時19歳であった。勝頼は北条に妻を返そうとしたが、本人は承知せず、「一緒に手を取り合って、三途の川を渡りたいと存じます」(甲乱記)と言って自害したという。
このように、織田・徳川の総攻撃が実質的に始まった2月初頭からわずか1ヶ月で武田家は滅びた。
はたして武田家はそんなに脆(もろ)い状態であったのか。仔細に見ていくと、一概にボロボロだったとは言いがたい。たとえば、前年の天正9年10月。北条方である伊豆・戸倉城の笠原政堯(まさたか)は、北条を裏切って勝頼に寝返った。政堯は、北条早雲以来の譜代・大庭氏の一族で、この寝返りを見ても、滅亡する半年くらい前までは、武田家はなお相当の勢威があったことがわかる。
一方で、人材の払底(ふってい)は深刻な問題であった。特に武将の補充は簡単ではなかった。長篠敗戦後、人事でも大きな動きがあった。それまで武田家中枢にあった山県昌景、馬場信春ら戦死した者たちに代わって、跡部大炊助や、長坂釣閑斎、武田信豊ら、勝頼側近が重用された。ここに、生き残った宿老たちの不満がマグマのように溜まっていく。特に、生き残り宿老の中で最も大きな力を持っていた穴山信君は、政権中央から遠ざけられて、やがて徳川に内通する土壌をつくってしまう。ついでに言えば穴山信君は、降伏後に武田家を攻める側として参陣し、活躍する。いかに戦国の習わしとはいえ、そしてどれほど不満があったとはいえ、勝頼を攻め滅ぼすのは気持ちのよいものではなかったろう。穴山信君は同年6月の本能寺の変後、家康と逃れる途中、伊賀の山中で野盗に殺されるが、自らを「武田信君」と称したこともあり、武田家への複雑な心理を窺(うかが)い知ることができる。
その28へ続く