決戦! 長篠の戦い その13
少し話題がそれますが、現在公開中の大河ドラマ「麒麟がくる」を私のnoteのこのシリーズにハッシュタグとして付けておりますが、おそらく長篠の戦いが「麒麟がくる」に登場することはないでしょう。この戦いは明智光秀の人生で考えると晩年の出来事になります。大河ドラマでは光秀の前半生を描くようですので。ただし、時代的には一緒ですので、歴史にあまり興味がない人にも、美濃や尾張の風景や市場の様子等、当時を知るうえで参考にしてもらえたら良いと思います。
さて、前回からの続きです。一部省略、簡略化。
『天下の情勢が不穏なまま小康状態にあるのは、織田の勢力が京都を中心として周囲を圧し、その勢力に抗する諸方からの反対勢力との均衡状態にあるからだった。けっして安定したものではなかった。
信長は京都に来ると、使者を皇居に送って、正倉院の御物蘭奢待(らんじゃたい)を所望した。
蘭奢の奢(じゃ)は奢香(じゃこう)の奢(じゃ)のことであり、蘭と奢香とを混合した明香の意味である。一般に蘭奢待と言われているのは黄熟香という伽羅(きゃら)に類する香木で正倉院の御物である。聖武天皇の御世に外国から献上された香木に天皇自ら蘭奢待と命名され、東大寺に下賜されたが、その後正倉院に収められたものである。東大寺蘭奢待ともいい、香りの道の人はこの香りのことを東大寺と呼んでいる。
このような古い歴史に飾られた名香を信長が所望した背景にあるものは、織田信長の現在の実力を以てすれば、朝廷もこれをこばむことはできないだろうという自信と、東大寺(蘭奢香)の下賜を受けた事実を諸国に見せびらかすためでもあった。つまり、信長の威信を顕示するための手段であったと簡単に解せばいいが、それにもう一つ、信長の貴族趣味が加わったものである。
朝廷はこれをしりぞけることができなかった。天皇は日野大納言輝資を勅使として派遣し、蘭奢待を下賜する旨を伝えた。
正倉院は開かれた。名香蘭奢待は長さ六尺の長持の中に入っていた。その中から蘭奢待は取り出されて、東大寺に運ばれ、多くの家臣を率いてやって来た信長の一見に供されたのち、古来からの作法通り、長さ一寸八分ほどを切り落として信長に与えられた。
蘭奢待は足利義政(八代将軍)のときに、下賜されて以来初めてのことだった。
信長は大いに面目をほどこした。
信長が名香蘭奢待を賜ったという話は、近隣の諸将を刺激した。
大坂の石山本願寺にこもる勢力は、信長のこの行為を僭越(せんえつ)というよりむしろ専横きわまりないことだと解した。
諸方の本願寺派集団が再び動く気配を示した。信長は、その機先を制して石山本願寺に兵を向け、その付近の寺領を荒らしまわった。4月のことであた。
5月5日に賀茂の祭りがあった。派手好みの信長のことだから、このようなお祭りには惜しみなく金を出した。
賀茂の祭りが終わった5日後に早馬が京都に着いた。勝頼が大軍を率いて古府中を出発したという報であった。第一報は兵力およそ、2万5千と報告され、第二報は2万と言ってきた。
家康は、5月8日に勝頼が古府中を出発したという第一報に接したとき、おそらく勝頼の攻撃目標は、高天神城であろうと言った。
家康は当然なこと、防がねばならなかった。だが、家康は二俣城のときにそうであったように、高天神城よりの矢継ぎばやの救援要求を無視したままでいた。武田の大軍が布陣してからでは手の出しようがなかった。
家康は味方を失いたくなかった。武田軍とまともに戦えば負けるに決まっているから、残念ながら、じっとしている以外に方法はなかった。武田と戦って勝つには、武田軍の少なくとも倍ぐらいの兵力を集めねばならなかった。織田軍が総力をあげて後詰に来てくれないかぎり、徳川軍の出番はなかった。
家康は京都にいる信長に連日早馬をさしむけて来援を乞うた。
「またか・・・・」
と信長は書状を見て言った。明らかに、高天神城救援については乗り気ではない様子だった。が、家康の使者に会うと、
「大義であった。早速兵をまとめて、高天神城救援に出向くであろうから、いましばらくは全力を上げて武田軍を防ぐように、徳川殿に伝えてくれ」
などと体裁のいいことを言っていた。書状にも、そのようなことは書いたが、遠江出兵の準備はいっこうにしそうになかった。
信長の胸中は複雑だった。武田の存在は信長の天下制覇の大いなる障害となっている。だが武田と鎬(しのぎ)をけずっている徳川の勢力も、近ごろ油断できないほどに成長していた。もし武田が亡びたとすれば、必ずや徳川は現在以上に伸びるに違いない。
信長は常に先を考えていた。できることなら、武田と徳川が泥沼の戦争を続けていてくれたほうがいい。その間に西方諸国を平定して、その強大な武力を挙げておし出せば、武田は一も二もなく織田の旗の下になびくであろう。信長にはこのような打算があった。
(今は武田と雌雄を決すべきときではない)
信長は自分自身にそう言い聞かせていた。
武田と決戦すべき時期でないという理由の最大なるものは、本願寺派が依然として信長に抵抗しているからだった。この宗教を背景とした武力団体は容易なことでは、討ち亡ぼすことはできなかった。
信長が大軍を率いて高天神城へ出征した場合、その後のことが心配だった。
信長は石山本願寺よりも、伊勢長島の本願寺派教団のほうを恐れていた。これまで、兵を向けるごとに手痛い敗北を喫し、多くの将士を失っていた。
伊勢長島の本願寺派教団の中心となっている、顕証寺法真の子法栄と、信玄の娘於菊御寮人とは許嫁の仲であった。つまり、武田と長島本願寺派教団とは、親類づき合いをしていた。今回の勝頼の高天神城攻撃作戦に対して、長島本願寺派がどう動くかすこぶる問題であった。
信長はこの地に置いた間者の一人、佐々木武州に直接会った。
「長島の動きはどうか」
信長の問いに対して、
「容易ならぬ情勢にございます」
信長はやっぱりそうかと思った。
「申せ」
と信長は身体を乗り出した。
「長島では今までにないようなことが行なわれております」
武州は一種の学習のようなものが行なわれており、それは軍学の指導のように思われることを伝えた。そして、その指導者は真田昌幸であることを伝えた。おおと、信長は声を上げた。真田昌幸は2月には、木曾衆を指揮して、信長を窮地に陥れ、4月には、遠州森の一之瀬で徳川軍を痛い目に合せた。その昌幸が長島に潜入して、軍学の指導をしているというのである。
信長の顔から血が引いて行った。
「真田昌幸は顕証寺法栄と於菊御寮人との縁談をまとめた人でございますから、長島衆とは親しく、長島衆も、昌幸の才能を充分に理解しておりまする」
武州は余計なことまで言った。
「そんなことはそちが言わないでも知っておる。昌幸はいったい、なにを教えようとしているのだ」
「よくは分かりませんが、伝え聞いたところによりますと、新しい乱破(らっぱ)作戦を教えているふうに思われます。特に火薬の使い方を丁寧に教えているらしいのです。これは拙者の想像ですが、従来の長島衆は、小教団毎に南無阿弥陀仏の旗を立てて、強引に押しかけ、押し倒すというやり方でしたが、今度は、教団は更に更に細かく分けて、その教団一つ一つに、目的を持たせて戦わせるというやり方のようでございます」
詳しくは知らないと言っていながら武州はほぼ要点をつかんでいた。
「よくそこまで調べた。ほめてつかわす。それで、現在の長島衆の動員力は」
「それが・・・・・二千にもなり一万にもなるような仕組みになっております。つまり、働ける者はすべて戦力に加えようというのが、真田昌幸の考えのようでございます。昌幸という大将は恐ろしい大将でございます」
相手をほめたことが気になったのか、武州はそこで頭を垂れた。
「下がってよい。引き続き監視を厳重にするように、それからもう一つ、真田昌幸が長島へ潜入した経路が分かったらすぐ知らせるように」
「それは分かっております。海路です。武田水軍に加わった伊勢水軍の船が彼を連れて来たのでございます」
信長はそれ以上聞く必要はなかった。彼は膝に手を置いたままじっと考えこんでいた。信長がなにか考え始めると、側近は遠慮した。彼の思考を中断すると、ひどく叱られるからであった。
信長は微動だにせず考え続けていた。
信長が家康の求めに応じて、大軍を率いて高天神城救援に向かったならば、真田昌幸は伊勢本願寺派を率いて、後方攪乱に乗り出すつもりでいることは間違いなかった。
新しい乱破作戦という言葉が信長の頭の中で何回となく繰り返された。
火薬を持った長島衆が、小集団となって岐阜城下に潜入して、火を放って歩く様子が目に見えるようだった。乱破部隊が次第にその数を増やして行くので、城内からは大手門を開いて、三百人ほどの兵が城外へ出ると、それがたちまち真田昌幸の指揮する乱破部隊に補足されて手痛い目に会って、城に逃げ込もうとする。その後を、付近に潜伏していた千人余の長島衆が追蹤して城に乗り込み、あっという間に岐阜城は敵の手に落ちてしまう・・・このような悪い想像が信長の頭の中に次々と浮かんで来るのである。
「まずい、高天神城出兵はよくない」
信長はひとりごとを言ってから、大きな声で側近を呼んで言った。
「書き役をこれへ、そして、越後への使者を用意せい」
書き役が現れると信長は、
「越後への書状だ、心して書けよ」
と言った。上杉謙信あての書状だとことわって置きながら、すぐにはその文句が出て来ないようであった。
(この際は、自ら兵を進めるより、謙信に頼んで、信州、上野(こうずけ)方面に出兵して貰うのが良策)
と思って書き役を呼んだが、さて、その気持ちを文章にするとなると、うまくは行かなかった。手の裏を謙信に見すかされてしまいそうで不安だった。
信長は三度書かせて、読み返してみてからその書状を破いて捨てさせた。四度目にこれならばという書状ができ上がったので、それを使者に持たせて越後へやった。
「これでよし」
と信長は言ったが、そう言った彼の心の中では、それとは正反対なことが、しきりに彼に問いかけていた。
その14へ続く
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