決戦! 長篠の戦い その11
前回からの続き
『「勝頼が岩村城に入ったとすれば・・・・」信長は考えた。即刻、兵を東美濃に入れて、岩村城を包囲し、勝頼の孤立化を図ると同時に、伊奈から入って来る武田の本体を邀撃(ようげき)しなければならない。
だが信長は、それをせず、軍を中津川の西二里半のところにある高野に進めて、ここに本陣を置いた。勝頼が岩村城に入ったと聞いた時点で、信長は岩村城攻撃をためらった。
勝頼が旗本を率いて、岩村城に入ったというのに、本体が愚図ついているわけがない、おそらく、武田軍は続々と東美濃に集結しているに違いない。そこへ斬りこむには策が要る。
信長は変わり身の速い武将だった。不利だと覚えると、すぐ次の作戦を樹てた。彼は織田軍を2つに分けて信長自らは2千を率いて中山道を東進して木曾に攻め入り、信忠には主力3千を率いて、阿木川沿いに南下して岩村城攻撃の態勢を取るように命じた。
信長が木曾に攻め込めば武田軍はその方面へ兵力を配備せざるを得なくなるし、信忠の軍が岩村に迫れば勝頼はこの方の備えに兵を向けねばならない。明智城攻撃どころではないだろうと考えた。巧妙な牽制作戦であった。
信長は作戦計画を樹てるとすぐに実行に移した。軍は二分されたが連絡を密にするようにところどころに、伝騎の中継所を設け、乗り替え用の馬を用意した。
進撃前に、その方面には多くの心利いたる物見を放った。
木曾と美濃との国境の要所要所には、木曾軍の見張所があるが、兵力は微々たるもので、信長の大軍が押し寄せたならば、ひとたまりもなく退散するような備えだった。
木曾軍の動く様子はなかった。木曾谷は静かに早春の眠りをむさぼっていた。信長はできるだけ木曾谷深く侵入してやろうと考えていた。場合によっては、そこに砦を設け、更には出城を築き上げ、信濃侵略の足がかりにしてもよいと考えていた。
「馬篭峠(まごめとうげ)を守る木曾軍はおよそ、百名あまり」
「木曾川沿いの間道には、ほとんど敵影なし」
「妻籠(つまご)には木曾軍の影は見えませぬ、妻籠から伊奈の駒場(こまんば)に通ずる清内路(せいないろ)方面にも敵の動きはございませぬ」
とつぎつぎと物見の報告が入って来た。
信長は物見の報告をいちいち聞いていた。時々首を傾げた。清内路方面は伊奈と木曾を結ぶ重要道路である。武田が東美濃作戦を行う場合、中仙道からの敵に備えて、当然この方面には若干の兵力を置くべきである。それが無いのはおかしい。
木曾軍の態度もおかしい。勝頼の東美濃作戦に対して当然、何等かの軍事分担を命ぜられている筈であった。
勝頼が、そのような処置を取らずに、旗本だけを率いて岩村城に駆け込んだとすれば、これはもう武田の統領としての資格はない。猪突猛進型の一介の武将に過ぎない。勝頼はそんな男だろうか。
信長は変だと思った。どう考えてもおかしいが、物見の報告によると敵影なしということだった。(よし、もし敵に備えがなければ、清内路方面を制圧して、飯田城を攻撃してもよい)
信長はちらっとそんなことさえ考えたが、敵の備えがないことが依然として気になるので、本陣の周辺を3百人の鉄砲隊で守らせながら馬籠峠に向かった。信長は先年の夏、朝倉軍を山岳戦に追い込んで大勝を得た経験があった。もともと山岳戦をやったことはないが、前年の山岳戦で自信を得た信長は、その時の体験を思い出しながら、何時どこから現れるかもしれない敵に対して不安な気持ちを抱きながら、馬籠峠に登って行った。
信長は途中で狼煙を見た。1つ2つではなく、あちこちの山の頂から狼煙が上がった。おそらく狼煙の継送によって織田軍来襲を本体に知らせるものと思われた。いやな気がした。
馬籠峠を守備していた木曾軍の兵は退散して姿を見せなかった。
間者を出して探ったが敵は居そうもなかった。
信長はこの不気味な沈黙を無視できなかった。側近の大将河尻与兵衛がいまのうちに妻籠まで軍を進められ、清内路方面を押さえるべきだと進言したが、信長は周囲の森に眼を配ったまま馬を進めようとはしなかった。
馬籠峠からは山また山であった。山の中に一本道があるだけである。その道をそれたら、動きは取れなかった。木の一本一本が、刀を持っていない木曾の兵に見えた。それらが動き出せば、枝が槍となり刀となって、彼に向かって来るようにさえ思われた。
信長は先遣(せんけん)隊三百人をまず、先に向け、続いて二百人を後詰として妻籠に向けた。威力偵察を兼ねての軍事行動であった。信長自身は峠からは一歩も動かなかった。
先遣隊三百人が去っておよそ一刻(ひととき)あまり経った時であった。遠く鉄砲の音が聞こえた。先遣隊が敵軍と遭遇したものと思われた。続いて、更に近いところで鉄砲の音が聞こえた。先遣隊後詰め二百人の歩いているあたりからだった。
信長は伝令を出して前の様子をさぐらせた。
その伝令は帰って来なかった。第二、第三の伝令を送っても帰って来なかった。
なにか変事があったなと思っているところへ、全身血だらけになって一人の兵が駆けこんで来た。
「先遣隊は敵の伏兵に襲われて全滅、先遣隊後詰めもまた全滅に瀕しています。御直参衆ことごとく討死し、・・・・・」
そこまで言うとその兵はばったりと倒れた。
(しまった計られた)
と信長が気が付いたときには、馬籠峠を囲む全山の木々が一度に音を立て騒ぎ出した。
森の奥に兵が見えた。兵は抜刀して、信長の方へ向かって徐々に山をおりて来た。その数はにわかに読み取れないほどの多数に見えた。
鉄砲隊が一斉に射撃を開始した。だが、森の木々が邪魔して戦果は挙げられなかった。木の間洩る太陽の光に、敵の刀が光って見えた。
「退け」
と信長は命令を下した。
信長は負けたと思った。兎に角(とにかく)、この狭い森の中から脱出しないかぎりどうにもならないと思った。
退けと言っても、道には千五百人の味方がいるから、馬で駆け抜けるわけには行かなかった。
防ぎながら退くしか方法はなかった。
森から出て来た木曾の兵は戦上手だった。森をたくみに利用して、出たり入ったりして戦った。
織田軍は数の上では圧倒的に多いのだが、森の中では木曾軍が完全に主導権を取っていた。木曾の兵はすこぶる勇敢だった。森から姿を現わした木曾の兵は鉄砲に撃たれて次々と倒れたが、その死骸を踏み越えて、信長の本陣を目掛けて突進して来た。そのすさまじい攻撃ぶりに織田軍は圧倒されて、防ぐだけがせいいっぱいだった。
信長はようやく危険地帯を脱して、美濃の領地に入った。信長は蒼白な顔をしていた。
「お館様は、ごぶじで・・・」
と池田勝三郎が声をかけたが、信長は返事をしなかった。信長は高野の本陣に落ち着いて初めてものを言った。
「木曾軍を指揮したものはなに者ぞ」
確かに、誰か名のある戦略家が敵中にある筈だった。その名前が知りたかった。
織田軍の損害はやがてはっきりした。先遣隊三百名一人として生還するものはなかった。先遣隊後詰め二百人のうち百二十人は戦士した。その他に戦死した者の数は三十名ほどあった。
敵の数については、それぞれの観測がまちまちで実態はつかめなかった。千という者もあり、千五百と言う者もいたが、実際は数百人の敵が反撃に出て来たものと推定された。木曾軍は数百だが、木曾の山がそれに味方したので織田軍には二千にも三千にも見えたのである。
木曾軍に手痛い目に合わされた信長は木曾軍に対して恐怖をおぼえた。そして、武田を亡ぼすには、まず木曾を亡ぼして、この暗い森の中に道をつけねばならないと思った。
後日、信長は多額な金品と巧言をもって、木曾義昌を誘い、勝頼に叛かせてから、木曾口より信濃に攻めこみ武田氏を亡ぼしたのも、この時の経験によるものである。
敗けたのは信長の率いる軍だけではなかった。信忠の率いる三千の軍は阿木川に沿って、岩村城に向かう途中、武田軍の春近衆と江馬衆に襲われて敗退した。
周囲は山に囲まれていた。その山の中の人が通るのもやっとのような間道を、春近衆や江馬衆は馬を使って機敏に移動した。
信忠の軍は諸方で伏兵に会って死傷者を出した。鉄砲は山の中だから、あまり効力を発揮しなかった。
このような山の中の足場の悪いところでは、密集部隊であることがかえって損害を多くした。春近衆を江馬衆は存分に首を挙げた。
信忠は途中で進軍をあきらめて、高野に引き返した。いつもならば、信長がこの臆病者めと信忠を面罵するところであったが、信長は黙っていた。
信長には手の打ちようがなかった。そうかと言って、明智城を見捨てて、引き上げるわけにも行かなかった。そんなことをすれば信長の信用は落ち、信長に対する陰口が全国にひろがるだろう。
信長は高野から動かず、しかも為すこともなく日を過ごした。たった一つの望みは勝頼が中津川方面に進出して来ることだった。山岳地帯を出たところで戦ったならばこっちが勝つと、信長は自分に言い聞かせていた。鉄砲隊こそ信長の頼みの綱だった。
明智城自落の報が信長に届いた。
勝頼が千余の軍勢を率いて、明智城に到着して、軍使を城内に送ると、城内では降伏か、決戦かの議論になった。
その最中に、飯狭間右衛門の率いる一隊が城内で叛乱を起こした。
明智城は戦わずして、勝頼に降伏し、抗戦を主張した武将はことごとく首を斬られた。
明智城陥落によって、信長・信忠父子は戦意を喪失した。
明智城を援助しようとしてそれができず手痛い損害を受けたことは、脳天に勝頼の一撃を喰らった気持ちだった。
(武田は強い、勝頼は信玄以上の武将だ。武田とまともに戦ったら首を取られるのは、こっちかもしれない)
信長は慄然とした。そのころになって、木曾方面に出してあった間者からの報告があった。
「木曾軍の目付は真田昌幸、おそらく馬籠方面の指揮は昌幸自らが取ったものと思われます」
信長はそれを訊いて、側近に言った。
武藤昌幸(真田昌幸のこと、昌幸は甲斐の名門武藤家の養子になった。後真田の姓に返ったが、他国では、武藤昌幸の名で呼んでいる人もいた)は信玄の眼と言われていた男だ。さても昌幸の采配の見事さと木曾衆の武勇、見事なものぞ」
信長が敵を褒めるようなことはめったになかった。
信長は高野に河尻与兵衛とその兵五百余を置いて岐阜に帰った』
その12へ続く