決戦! 長篠の戦い その7
引き続き、新田次郎の小説「武田勝頼」より抜粋、一部省略。
・新統領の座の周辺
『信玄亡き後も京都屋敷における市川十郎右衛門等を中心とする諜報活動は依然として行なわれ、次々と新しい情報が古府中に送られていた。天正2年(1574年)元旦に岐阜城内で行われた新年会の催しの模様は、数日後に古府中の穴山信君に報告された。信君は十郎右衛門の書状を重臣たちの集まったところでこれを披露した。
「朝倉義景、浅井久政、長政3人の髑髏に漆を塗り、更に金箔を打たせて、新年宴会の肴として出すなどということは、信長自らが常人ではないことを家臣たちの前で示したようなものだ。このような男が天下人となれる筈がない。これは取りもなおさず信長自滅の兆しというべきものであろうか」
信君は大笑した。だが、座に連なる多くの武将等はそれには同意を見せず、それぞれ信長のやり方についてあれこれと思いを巡らせていた。
「昌幸はどう思うか」
と武田逍遥軒信綱(信廉)が真田昌幸に訊いた。昌幸は信玄の命令で京都へ行き、信長の叡山の攻撃ぶりを見た経験もあるからそのように訊いたのである。
「穴山様のお言葉どおり、信長はいずれは自滅する武将と思います。彼は、あまりにも人の命を粗末にし過ぎます。ということは自分の命もまた粗末にしかねないということになります。だが、ここしばらくは、彼の身に異変は無く、むしろ彼に敵対するものが、朝倉、浅井等と同じような運命をたどるものと思われます。信長が天才であれ、狂人であれ、天下統一という目標を目ざして、まっしぐらに駆け登ってゆく勢いに抗する者は今のところございません」
「なに・・・・」と口を挟んだ者があった。小山田信茂だった。
「武田家の存在を忘れてはならないぞ。信長は、甲斐に武田が健在であるかぎり天下統一はむずかしい」
「そのとおり、しかし・・・」
と小山田信茂の言葉に反発したのは内藤昌豊だった。
「その武田は同盟国の朝倉、浅井の亡びるのを黙視していた。つまり見殺しにしたという風評が諸国にあると聞いているがこれをご存知か」
それに対して、1度に10人ほどが口を挟んだ。朝倉、浅井を見殺しにしたのではない、われ等は、故信玄公のお遺言を忠実に守っていたのだと、或る者は怒りさえ含めて言った。
「いろいろの見方もあるし考え方もあるだろう。しかし、そのことについて、私はこう思う」
と武田信綱が云った。
武田信綱は武田信玄の弟である。母が同じということもあって、容貌は信玄ときわめてよく似ていたが、性格は全然違っていた。信玄の生きているころ、軍議の席で発言したことはほとんどなかった。時には軍議の席で居眠りをしていたことさえあった。その信綱が珍しくこの席で発言したので重臣たちはいっせいに信綱のほうを見た。
「私は去年の夏、遠州森で徳川の軍に破れた。危うくこの首を取られるところだった。なぜあんな下手な戦をしたのかと自分ながら恥ずかしいと思っている。だが、日が経つにしたがって、負けた原因が自分でもはっきりと分かるようになって来た。戦に勝つには、兵力とか武略とかそういうことよりも、もっと大事なものがある。それは、必勝の信念だ。去年の夏、私はそれを持っていなかった。兄信玄を亡くして以来、私の心から必勝の信念が消え失せていた。お館様を失ったことで、武田家そのものさえも見失っていた。だから負けたのだ」
分かるかなというふうに信綱は重臣たちの顔をいちいち念を押すように見てから更に続けた。
「よくよく考えて見ると、お館様は亡くなったが、甲斐信濃の、三万の武田軍は、依然として健在だ。それなのに、このような気持ちになったのは、後のことがしっかりと決まっていないからだと思う。兄信玄が亡くなって以来、兄信玄に替わって、お館様となって武田を率いて行く、その跡継ぎがはっきりしていないことが、なにか武田そのものさえ見失ったような気持ちにさせたのだと思う。遺言のことは守らねばならない。しかし、現実問題として、喪を3年間秘せよという遺言は無意味なものとなっている。今や兄信玄の死を知らぬものはない。兄信玄が名将と謳われている理由の一つは戦いに臨んでの兵の動かし方にある。情勢に応じて或いは攻め、或いは退いた用兵の妙にある。もし今、兄信玄が再びここに出現したとしたら・・・」
信綱は一瞬声を飲み込み、姿勢を正すと、両手を膝の上に置き、
「昌景(山県昌景)、信春(馬場美濃守信春)、修理(内藤昌豊)、信茂(小山田信茂)、勝資(跡部勝資)、余がそちらに日頃教えていたことをよもや忘れはしないだろう。合戦の場で、大将が倒れたら、必ずその大将に替わって采配を取る者が決めてあったはず。小田原城を囲んでの帰途、三増峠で待ち伏せていた北条氏照の大軍と戦ったときのことを思い出して見よ。中央道を攻め登っていた勇将浅利信種は敵の鉄砲の弾丸に当たって戦死したが、その馬に直ちにまたがって指揮を取り、無事難関を突破したのは軍監の曾根内匠であった。みなのもの、今をなんと心得る。今は合戦中ぞ。合戦の最中(さなか)に信玄が死んだならば、その信玄の采配を取るのは勝頼以外にはない。喪を三年間秘せよの遺言は、その時に於いては重要な意味を持っていた。だが、喪を秘す必要がなくなった現在においては、それに固執することはない。常に敵の動きを見て、それに備え、それを攻めよと、余はそちたちに教えて来たことをよもや忘れはしないだろう。信綱(武田信廉)、信龍(一条信龍)、信君(穴山信君)等親類衆はなにをためらっておるのか、さっさと、跡目の式を挙げないのか。即刻、武田家の重宝御旗(みはた)、盾無(たてなし)の前で、勝頼が武田の統領となったことを先祖に告げ、勝頼を中心として武田の陣容を強化し、天下に武田の名をしらしめよ」
信玄と顔も似ているし、声も似ている信綱が、言葉の区切りに、はっきりと間を置いて話す言葉は信玄自身が云っているように聞こえた。声色を使っているという感じではなく、ほんとうに信玄が生き返って来て、そう云っているようにさえ思われた。
信玄が死んでしばらくの間は重臣達の合議制という形で、実際は穴山信君自身が中心になって武田を動かしていこうと考えていたが、それが無理であることが信君にも分かって来たし、なによりも周囲の情勢が急速に動きつつあるので、やはり、武田は勝頼を中心としてまとまる以外に方法はないと考えるようになって来ていた。信君は機を見るに敏なる男であった。信綱が兄信玄の声色まで使って勝頼を推薦したということは非常に重大なことだと考え、こうなれば、むしろこの時点で勝頼に肩を入れたほうがすべて有利だろうと考えた。
「さよう、私も、これ以上、相続の儀は延ばすべきではないと考えておりました。信綱殿がそう云われるならば、この信君が使いとなって新館(しんやかた)様に会い、お迎えの儀につき、相談いたしたいと思います」
信君は上手に受けた。つい最近まで勝頼のことを四郎殿と云っていた信君が新館様と云ったばかりではなく、もっとも分のいい使いを引き受けたのだ。その変わり方を並みいる武将たちは複雑な気持ちで受け取った。勝頼と信君との確執がこれで解消して武田は安泰だと喜ぶものもいるし、信君の本当の心はなんだろうと更に疑いを濃くする者もいた。しかし全体的には、そうならざるを得ないという時勢の流れが、このようにしたのだと受け取った。』
-------------------------------------------------------------------------------------
ここまで見てきましたが、その後、勝頼と穴山信君との確執が表面的には消えると、躑躅ヶ崎の館には一足先に春が来たように、活気が溢れたようです。訪問客が多くなって、馬のいななきが聞こえ、館の内外での調練も活発になりました。この頃、織田や徳川が足軽部隊の調練をやっているという情報が武田方に入りました。信玄の頃にも調練は行われておりましたが、各部将でまちまちに行われていたようです。この時期は鉄砲足軽という職業軍人の部隊が出現してきており、兵農分離の兆候が濃厚になって来ておりました。勝頼も、鉄砲足軽に調練をさせました。織田徳川の真似ではなく、時代の流れがそのようになっていたのです。
-------------------------------------------------------------------------------------
『勝頼がお館様になって、すぐ鉄砲足軽の調練を行い、馬場では早朝から騎馬隊の調練が行なわれ、常にその先頭に勝頼が立っているのを見る家臣団の多くは、信玄は死んだが、時代を担う勝頼を頼もしいと思っていた。だが、中には信玄が死んで一周忌も来ないうちに、慎みがないことをする人だというふうな眼で見ている者もあった。しかし、これはごく少数で、館全体としては暗さが明るさに転じようとしていることは事実だった。山県昌景と馬場信春が顔を合わせたとき、どちらからともなく、よかったなという声が出た。
勝頼と信君との確執を心配していたこの2人の宿将は、とくと申し合わせた上で、武田信綱のところに行って、取りなしを頼んだのである。信綱が重臣たちの前で、信玄の声色などを使って、勝頼を正式統領の座に据える大芝居を打たせた影の人は山県昌景と馬場信春であった。穴山信君の方にも渡りをつけてのことだった。昌景、信春の2大宿老は、たとえ信玄が死んでも武田の重鎮であり、この2人の動きを無視はできなかった。
勝頼も、跡部勝資の口を通じて昌景、信春等の調停工作のことを聞かされていたから、信君の訪問を快く受け、それまでのことはいっさい水に流したような気軽さで、本館へ移ることを承知したのである。』
その8へ続く
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?