決戦! 長篠の戦い その12
前回からの続きです。
『明智城を手に入れた勝頼は城内の広間に将士を集めた。軍議を開くには多数に過ぎたし、祝宴を張るにしては酒の用意がなかった。一同は武田の新統領勝頼の発言に対する不安と期待をこめて集まった。
集められた者はおよそ二百名、主だった者ばかりだった。あたりが静かになった。側近が勝頼に集合が終わったことを告げた。勝頼の周囲には老将、宿将が並び、年齢と階級によって順次その位置は離れてゆく。将たちは勝頼の前に手をつかえて勝頼の発言を待った。信玄の時代にもこのようなことがしばしばあった。信玄は彼の直ぐ近くにいる老将、宿将たちに合戦の苦労をねぎらい、戦いの勝利はそのほうたちの努力のお蔭であったと言い、そして最後に不運にも戦死した将兵の遺族に対して追悼とねぎらいの言葉をかけるのが常となっていた。
こんな場合遠くの者は、ほとんど信玄の言葉を聞くことはできなかったが、信玄がなにを言っているかがほぼ分かった。型どおりのことであり、当たり前であるからなんとも思ってはいなかった。
勝頼は側近の者が将士の集合が終ったことを告げると、突然立ち上がった。なんのために立ち上がったか誰も分からなかった。みんなが座っているのに一人だけが立ち上がるということは異例なことであり、非礼なことでもあった。なにか気に入らないことでもあってそうしたのかと思って心配そうな眼を勝頼に向けたが、そんなこともなさそうだった。
勝頼は立ち上がったままで一同を見渡していた。近くにいた側近や重臣たちの二、三が勝頼にならって立ち上がろうとした。勝頼はそれを手で制した。
「そのまま、そのまま聞くがいい」
その一言は隅から隅まで聞こえた。勝頼が一同に対してなにかを言うために立ち上がったことだけは分かったが、なぜそのような異例のやり方をしようとするのか見当がつかなかった。
工事奉行が一段と高いところから人夫たちに声を掛けることがあった。合戦の際、侍大将が馬上から配下の足軽たちに大声で命令を下すことがあった。しかし、武田の統領である勝頼が、家臣たちの前で立ち上がってものを言うなどということは考えられないことだった。
将士たちは唖然とした顔で勝頼を見た。
「余は、ここに集まった一人一人に余の言葉を伝えたいがために、このようなことをしたのだ。軽々しい行動だと余を批判する前に、まず余の声を聞いて貰いたい」
勝頼の声は凛呼(りんこ)として響いた。その一声で将士は勝頼が次に言わんとしていることに聞き耳を立てた。
「余は信長軍を撃破し、明智城を手に入れた。この大事ができたのは、まず第一に伯耆守(ほうきのかみ)(秋山信友)を将とする、伊奈春近(いなはるちか)衆の手柄である・・・・」
勝頼はそこで伊奈春近衆の主なる者の名を上げ、次にこの作戦に参加した江馬信盛の名や木曾衆の主なる者の名を次々と挙げた。
まず先方衆を賞した後で、本国の甲斐の国から遠征して来た将士の名を挙げてその功績をたたえた。よく人の名前を覚えていたし、その順序を間違うことがなかった。
そこまでは、立って話しているということを除けば、ごく常識的なことで、特に驚くには当たらなかった。
勝頼は一般的なことを言ったあとで突然語調を変えた。
「余は、武田家の統領としてはじめてこの合戦に出て、そして輝かしい戦果を得た。戦勝の主たる原因は、若い将兵たちの果敢なる行動にあった。余は若い。智略においても、武勇においても、父信玄に比較すべくもないほど若い。しかし、やる気だけはある。織田信長がごとき成り上がり者に天下を取られたくはない。余の若さを補う者は、若い将兵の力である。時代は変わりつつある。若い時代には若い者が力を合わせて向かわねば勝利は得られない。みなの衆、やろうではないか。織田信長、徳川家康、なにするものぞ、武田の団結が固いかぎり、恐るべき相手ではない」
勝頼はそう言い切って座についた。
現代的に言えば、これは演説であったが、当時にしてみればまことにおかしなことであった。宗教家は衆の前で説法をしたが、大国の統領たる者が、将士の前でこのような方法で意思表示をやったことは聞いたことがなかった。しかしこの勝頼の演説はそこに居並ぶ多くの将士に或る種の感動を与えた。
勝頼が若い世代に呼びかけたのは、そこにいる若い将兵の心を打った。これからはおれたちの時代だという認識を与えるのに充分だった。老将はまたこの演説を聞いて、信玄から勝頼へ、世代の移行が行なわれたことをはっきりと知った。これでいいのだと思った。』
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勝頼は明智城には長くは留まらず、三河へと馬を進めた。そして足助城を落とした。武田方からの寛大な条件での降伏の勧めがあったことによって、このまま戦うか降伏するか城内で議論が沸騰したが、最終的にほとんど戦わずして足助城は開城した。
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『名のある者の多くは、その日のうちに足助を離れたが、城兵のうち約半数はそのまま城に残った。彼等に取っては、織田についても武田についてもどうでもよいことだった。できることなら、強い方について、合戦の折、手柄を立て、名実共に侍としての身分になれることが望みだった。
足助城が落ちたことによって、その付近の安城(あんじょう)、田代、浅谷(あさがい)、八桑などの出城や砦はほとんど自落した。
足助城陥落は三河に重圧を加えることになった。足助から岡崎までは僅かの六里(24キロ)しかなかった。
「三河物語」によると勝頼が足助城の攻撃を開始したころ家康は、自ら二千を率いて犬居の攻撃に向かっていた。
信長は足助城の陥落に続いて、家康が犬居城攻撃の帰途、一之瀬で敗戦したという報を聞いた。
「信州街道の一之瀬で徳川軍を苦戦に追い込んだ天野軍の軍監は真田昌幸でございます」
と、この戦いに参加した早川兵庫が信長に報告した。軍目付というほどの資格ではないが、徳川軍が出兵する度に、必ず何人かの織田家の家臣が同陣した。武田軍に対しては、徳川、織田が緊密に連携して戦うという盟約を実行するために、むしろ徳川家康のほうが積極的に織田軍の援助を求めたのである。
信長は早川兵庫の報告を待つまでもなく、忍びの者によってそのことは知らされていたので別に驚いたふうは見せなかった。
信長は神経質な男だから、三河、遠江方面には多数の間者を放って、徳川と武田方の両者の動向を探っていた。
浅井、朝倉を亡ぼした現在において、もっとも恐るべき敵は東国の武田勝頼だった。勝頼が、甲信の騎馬隊を率いて西上して来たら、防ぎようもないように思えるのである。あらゆる情報を基にして検討してみた末、武田軍こそ織田軍にとってもっとも強大な敵であることに変化はなかった。武田軍の騎馬隊に真正面からぶっつかったら、とうてい勝味はないように思われた。騎馬隊も恐ろしいが、山岳戦に引きずりこまれた場合も恐ろしかった。
信長は木曾衆の手強さを身にしみて知っていた。
「勝頼の代になってからの武田全体の士気はどうだ」
「それについては、武田軍への兵糧輸送の人夫として忍びこませた心利いたる者が耳にした歌がございます。それは・・・・」
と言って早川兵庫は、眼を閉じて記憶を探り出すようにしながら低い声で歌った。
代替わり飛ぶ鳥おとす御威勢は
勝頼ほかになしと見えたり
勝つよりほかにない、つまり連戦連勝だということを勝頼にかけて歌ったのである。信長は黙って聞いていた。かすかに眉間のあたりがぴくりと動いたようだが、大声は出さず、意外に落ち着いた声で、
「そちなら、どうする」
と言った。兵庫には、信長の言った意味が分からなかった。兵庫は、はっと言っただけで言葉に窮した。
「そちが総大将となって勝頼に立ち向かうとすればどのようにするのかと訊ねておるのだ」
信長はとんでもない時にとんでもない質問を発することがあった。相手が大名であろうが家臣であろうが、時によると忍びの者に対しても、思ったことを口にする癖があった。
早川兵庫は一瞬戸惑ったが、もともと才覚のある男だったから、思ったままのことをそのとおり言った。
「勝ち潮に乗った相手は、そのまましばらく勝ち潮に乗せて置きましょう。潮は動きます。満ち潮の次には引き潮が来ます。一つの波を例にとって見ても、波の頭と頭の間には谷間があります。勝頼がいつまでも満ち潮に乗りっぱなしということはないでしょう。必ずや、引き潮に乗るようなことになるでしょう。そのときこそ全力を上げて叩くべきだと存じます」
よし、と信長は言った。早川兵庫のその答えが気に入ったようであった。
信長はそれからは勝頼の動静については、あまり気にかけないような素振りをしていた。
勝頼が三河から引き上げたという報を聞いたときも、たいして驚いたふうは見せなかった。
そのころ信長は京都にいた。』
その13へ続く
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