決戦! 長篠の戦い その20

前回からの続き。

・勝頼の判断
 
信長は17日に牛久保から軍勢を野田原あたりまで9kmあまり前進させたようだ。さらにそこから信長は長篠城を取り囲む武田軍近くまで鉄砲隊を差し向け、威嚇射撃を行った可能性がある。今回の信長の出陣目的は長篠城救済であったので、この行動は武田軍の目を西に向けさせるための目的があったのかもしれない。
 信長・家康軍は敵に「陣城を構えて籠っていた」と相手にそう思わせるほどの構築物をこしらえていたと考えられている。そうした相手に対して勝頼は当時駿河にいた家臣、今福長閑斎(いまふくちょうかんさい)に対して次のような手紙を残している。
 『当方の様子が心配だというので、わざわざ飛脚を派遣してきてくれてありがとう。ほぼ自分の思ったとおりになっているので、安心してほしい。長篠城を攻撃したところ、信長・家康が支援のため出陣してきた。しかし、さしたることも起こらずに対陣したままである。どうやら敵はなすすべを失い、困っている様子なので、一気に敵陣を攻撃し、二人を討って本位を達成しようと思う。うまいこといきそうだ。そちらの城の守備も、くれぐれも用心してほしい』(「シリーズ【実像に迫る】長篠の戦い」より)
 敵が為す術もなく困っているとみた勝頼は、この機会を逃さず一気に攻撃しようと考えていたようだ。信長たちは設楽ヶ原に布陣したものの、武田軍に兵を見せないように布陣して、目だった攻撃は鉄砲隊による威嚇射撃のみであったため、そのように感じ取った可能性もある。
 こうした状況をみて、勝頼は長篠城包囲のため一部の部隊を残し、寒狭川を前進し、連呉川を挟んだ東側の丘陵に軍勢を配置した。

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↑ 設楽原歴史資料館より ↑ ちょっとシンプルすぎるかな・・・。

・信長の次の一手
 信長はこれを見て、酒井忠次率いる2000の兵、信長傘下の鉄砲隊2000と鉄砲500を付け、計4000の兵に対して、南の山を迂回して鳶巣山の背後にまわり、勝頼が長篠城包囲軍として残していた鳶巣山砦の軍を奇襲させた。この奇襲は成功し、鳶巣山砦は落ちて、長篠城を包囲していた味方は敗走した。
 この奇襲については、信長の案ではなく徳川軍の酒井忠次の案だったとする説がある。つまり、徳川軍は今まで何度となく信長の要請に応えて援軍を差し向けた。浅井との戦いの時も、朝倉との戦いの時も。それなのに今回は高天神城がついに武田軍によって落ちてしまった。今回の長篠城救援に対しても出陣なき場合は武田方につくぞと家康が信長を脅したとの噂もあるほどであるが、このまま出陣だけして何もせずに帰られては困る、信長がせっかく出陣してきたのであるから、その信長の大軍を利用して勝頼に打撃を与えてやるという考えがあったする説である。徳川軍がそのように思っていた可能性は大いに有り得る。
 この鳶巣山砦の奇襲攻撃について、「シリーズ【実像に迫る】長篠の戦い」では次のように説明している
 『「信長記」には、「御味方一人も破損せざるのように」考えてこの作戦を立てたと書かれている。つまり、自軍の損害を最小限に抑えたいというのが、いくさにあたっての最優先の条件だったのである。先に見たように、信長は一ヶ月前まで本願寺攻めをおこなっていた。二ヶ月前には、秋に予定されている本願寺攻めのための指示を長岡藤孝にあたえていた。このときの出陣目的が後詰であったことを考えると、ここで武田軍とは本格的に干戈(かんか)を交えるつもりはなく、たとえそうなっても、できるかぎり本願寺戦のために兵を温存しておきたかったのではあるまいか。
 勝頼の立場としたらどうだろう。三河に侵攻して、足助城以下、東三河北部の諸城を陥落させ、この地域の拠点である吉田城に圧迫をくわえたうえ、周辺の牛久保城や野田城から徳川方を一掃した。そうしたかなり優位な状況にあったなかで、余力による「ひと働き」として長篠城を包囲した。出陣期間がこれほど長期化するとは思っていなかったのかもしれない。
 長篠城は、大軍によって包囲されながら2週間以上は耐えた。攻めあぐねた勝頼の耳に、信長・家康が近くに進軍してきたものの、あちらも「逼迫」しているらしいという情報がちょうど届き、それなら一気に勝負をつけようと判断した。後年このときの戦いぶりを批判した「甲陽軍鑑」は、勝頼が「強すぎたる」大将であることが長篠敗北をまねいたと指摘しているのも、このときの判断を念頭に置いているのだろう。
 それを考えれば、武田軍が前進したのを見て即座に奇襲作成を実行に移した信長の判断こそ、長篠の戦いにおける勝敗の分かれ目であったといえよう。状況に応じた柔軟な立案は賞されてよい。また、長篠城がふんばったことも、結果的に長篠の戦いでの勝利にむずびついた。断崖のうえにある立地や、直前の兵糧米備蓄が功を奏したのであろうか(そして、ひょっとしたら鳥居強右衛門の働きも)。』

・武田軍突撃の理由
 長篠の戦い(設楽原の戦い)において、謎とされてきた一つに武田軍が柵に向かって突撃した理由だろう。敵は明らかに柵を築き鉄砲を用意していた。前述のように陣城を構えているように見えていたのだから、武田軍にとっては城攻めともいえる不利な状況でもあった。それなのに突撃した理由としては敵が為す術もなく困っているように見え、戦意も低いと判断したのが一つ。また、酒井忠次の奇襲により背後の鳶巣山砦が陥落し、前後から挟まれる形になってしまい、退路が断たれた状況が挙げられる。「信長記」にも「前後より攻められ」た為、武田軍が軍勢を前に出したとの記述があるようだ。
 さらに、新田次郎氏の小説「武田勝頼」や「WEB 歴史街道」では織田の重臣・佐久間信盛の内応説を取りあげている。特に新田氏は小説の中で佐久間信盛が武田軍に内応する証拠として誓書まで提出してきた前提で話を進めている。また、冊子の「歴史街道 長篠合戦の真実」の中で小和田哲男氏も、信長が佐久間信盛に、勝頼に偽りの内応をもちかけさせた真偽は定かでないが、武田軍に攻めてこさせるためにこの種の謀略を駆使した可能性は否定できないと述べている。ちなみに「シリーズ【実像に迫る】長篠の戦い」では佐久間信盛の内応説については触れていない。

・武田軍の突撃
 設楽ヶ原の決戦について、新城市の設楽原歴史資料館を訪れた際に配布された資料【長篠・設楽原の戦い】によると、「岡崎城を出発した信長と家康は、18日に設楽原に到着。さっそく設楽原を流れる連語川沿いに馬防柵を築きはじめた。その長さはおよそ2キロに及んだ。一方、武田軍は本陣の置かれていた医王寺に重臣が集まり、軍議が行われた。連合軍の軍勢の多さ、布陣の様子などを遠くに臨み、武田軍の不利を述べる重臣もいれば、決戦に積極的な重臣もいた。その結果、「武田軍に勝算あり」という結論に至った勝頼は設楽原へと陣を遷す(うつす)ことを決断した。」と記述されている。
 武田軍の突撃直前の様子について新田次郎氏の小説「武田勝頼」から引用すると、
 『信長は各部隊へ使番衆(参謀部員)を飛ばして、「敵を柵の近くまで近寄せて戦え、本陣よりの命に従わずして、抜け駆けの功を得ようとする者があれば、たとえその手柄が勝頼の首であったとしても、許すことはできぬ。命令違反者として重く処罰する」と伝えた。そして、左翼陣の大将、佐久間信盛に対しては、「かねての打ち合わせどおりに敵を支えよ、本日の合戦の勝負は、そちの動き如何にかかっている。充分、落ち着いて采配を振るうように」と命令した。各部隊は、雨の中で立ったまま、焼き米をほお張り、塩をなめた。炒り豆を朝食がわりに食べる者もあったし、この朝のために、にぎり飯を用意していた者もあった。炊爨(すいさん)の焚火は何処にも見当たらなかった。連合軍、三万九千の軍勢は、この日武田軍の攻撃あるものと、ことごとくが予期していた。連合軍は武田軍に対して三倍以上の圧倒的兵力を有しているが、武田軍の強さをかねてから聞いている連合軍に取っては、その来襲こそ恐怖であった。黒い雲となって襲し寄せてくる武田軍団を果たして支えられるかどうか将兵ともに自信はなかった。開戦の期が近づきつつあることは誰もが知っていた。連合軍の将兵は柵によって、来るべきものを待っていた。全員が死の恐怖に襲われつつあるような顔だった。』という状態であったと説明されている。
 信長はこの前線の将兵の士気が上がっていないことを知ると、武田軍の自信をくだき味方の士気を上げるため、鉄砲で騎乗の大将を狙えという命令を変更し、まず馬を狙え、敵の馬は一頭たりとも無事には返すなと命令したと小説では描いている。
 そして次のように続く
 『武田の本陣から法螺(ほら)貝の喨々(りょうりょう)たる音が響きわたり、同時に鉄砲の一斉射撃の音が山間にこだました。突撃開始の合図であった。各部隊は一斉に押し太鼓を打ち鳴らしながら連吾川に向って前進を開始した。--------中略--------- 武田軍は全戦線に渡って進撃を開始した。だがこれは武田軍一万三千が火の玉となって連合軍の陣地に攻め込んだというものではなかった。それぞれの部隊から第一番隊が繰り出し、連合軍の柵に迫ったのである。連合軍もまたそれぞれの部隊から一番隊を前面に出して防備に当たったのである。ただ両軍を通じて、それまでになかった軍の配置は連合軍側が、信長の命令によって鉄砲隊をこぞって前面に出したことであった。武田軍は前線に渡って動き出した。押し太鼓を打ち鳴らしながら連吾川まで来たとき、それまで降っていた雨が止んだ。』

その21へ続く

※参考 WEB 歴史街道


 

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