【小説】10/100
生徒たちの大半は帰り尽くしただろうか、と、もう夕刻とは言えない暗闇の空を見上げて思う。教室や学内は警備員が徘徊し、生徒が残っていないかを確認してくれるので心配要らないだろう。しかし、どうしたものか。雨が降っていた。職員室で明日の授業の資料を纏めていた頃、雨音に乗せてどの先生かが言った。「降ってきましたねぇ」と。大人になると雨は決して嬉しい気候ではない。傘が必要で片手は塞がるし、排水口の上を歩くと下手すれば革靴が滑る。車で通勤するにしろ、公共交通機関を使うにしろ、みな雨に濡れたくない一心なので、どこも混み合うのだ。道路も、地下鉄も、駅のホームも、電車内も。生徒達は中学生なので、学校からそう遠くないところに住んでいる。中学は学区内に居住しているかどうかで通う学校が定められるので、可能性としてあったとしても、親御さんが車で校門の前まで送るのみだ。そして私はというと、幼い頃、母の手一つで育てられた母子家庭出身のため、家に車などなかった。母は離婚前は専業主婦を務めていた。心持ち良かったと思えるのは、産まれたのが私一人だったということだろうか。しかし、大学を卒業後そのまま進路に乗るようにして結婚をした母にとって、私を抱えて一人でパートを務めるのは大変だったに違いない。苦労をかけてしまったな、と思う。母は笑顔を絶やさない穏やかな人柄であったが、その裏、私が寝た頃に涙を流す夜もあっただろう。だから私は今こうして公務員に、そして鍵っ子だった私のような生徒が寂しさから非行に走ったり、取り返しのつかない過ちを繰り返さないように指導するために、教師になった。教師になり、もう15年ほど経つ。初めはもたつきながら、手を震わせながら、朗読を、そして音読を促し、黒板へとチョークを滑らせたものだが、今はもう、緊張などない。教師という職について5年ほどし、己の生活が安定したところで、私は母に仕事をやめさせた。そして毎月、少ない月給の中から母が暮らせる程度の仕送りをしている。ふと、隣に柔らかい香りが、雨の湿たるい匂いに混ざって現れた。
「導先生、お疲れ様です」
「梨口先生もお疲れ様です。お迎え待ちですか?」
ふわりと桃の髪を耳にかけながら、私より10センチ程低いだろう背丈の彼女は首を傾けた。
「いや、まさか。少し考え事をしていたら思ったより雨が降ってしまって。傘を……」
と言いかけて、私は何もない左手の拳を丸めた。傘を忘れたなどと口にしてしまえば、物腰柔らかい彼女のことなので、私に傘を貸すなどと言い出しそうだったからだ。だから言いかけた言葉は唾と共に飲み込んだ。一緒に傘へ入ろうと誘われる可能性も少なくない。そんな場面を生徒に見られてしまっては、生徒を導く立場として、格好が決まらない所がある。最近の親御さんは教師より圧倒的に立場が高いので、少しでもほつれ目を見せたらその糸をくいくいと引き、明らかにしてしまうのだ。とにかく、いけない。
「傘を忘れたならご一緒しませんか。そこの、バス停まで。すぐそこです」
やっぱり。彼女が指さしたのは木々が生えている校門のすぐ隣だった。木々に隠れて見えないが、その奥にバス停がある。下駄箱から校門までは20メートル程あり、校門から学内を出てバス停まではほんの30秒あれば辿り着ける距離だ。時間に換算すれば3分もかからない距離だった。
「いえ、そんな。バスの時間を覚えているのでそれに合わせて帰りますよ。どうぞお先に、お気をつけて帰ってください」
「でも」
普段から優しい人だと思っていたが、食い下がってくるのは意外だった。何か言いたげに丸い垂れ目が私を見上げては、真横に走り、そして伏せられる。口を僅かばかり開いて、閉じた。
「あ、……」
ザアザアと雨音が、またひとまわり大きくなった気がした。道路を走る車の音から、小さな水飛沫の音がする。雨の日は、どうにも好きになれない。それは私が幼い頃、車で送り迎えをしてもらえる友人達を見て悔しかったからかもしれないし、単に傘をさすのが億劫だからかもしれない。
「暗くて怖いので、途中まで一緒に来てくれませんか?」
それは教師としてではなく、一人の女性として発せられた言葉のようだった。
そんな風に言われると断れるわけがなく、また上手い理由も思いつかず、人でなしにもなれず、私は彼女が差し出した傘を手に取った。持ち手の部分がくるんとカーブしており、傘を雨の向こうへ開いてみると、シンプルな紺色の地に白や薄黄色の小花が散っている。この人のイメージ通りだな、と私は思った。背丈の低い彼女を守るようにして、二人で傘に入った。肩が触れ合うか、触れないか程度の距離だ。校門へと向かいながら、時折、彼女の肩が濡れていないかと心配になり、そちらを伺った。目が合いそうになると彼女は、前を向いて誤魔化すように早口になった。
「ありがとうございました」
彼女が丁寧に頭を下げたのは、バス停についてからだった。私はこのままバスに乗り、家の最寄りまで乗る。家はほぼ終点の場所にある。彼女の方は、家がここから近いのだろうか。周りに駅の見当たらない中、そしてすっかりと闇に包まれた寒空の下を一人で帰すのは気が引けたが、教師対教師という関係があるので下手に物を言い出せず、彼女に傘を返した。
「こちらこそ、本当にありがとうございました。明日も宜しくお願いします」
雨の中に晒された身体は急激に冷たくなり始める。眼鏡のレンズが自分の息で曇り、雨粒が乗ると彼女の顔が揺れて見える。景色と同化してしまった彼女から目を離さない。彼女はやはり少しの間そこへ立ち止まって、それからようやく背を向けると、帰路へと向かった。紺地に小花の傘が、こちらを向いていた。何となしか抑えがたい衝動のせいで一瞬、左足が彼女の方へ向いたが、私は諦めた。ちょうどバスが来た。荒い停車音と共に1割も乗客がいないバスに乗り込み、席に着くと、バスは発車した。何故だかわからないが、彼女と私が先程まで一緒に歩いていた道がよく見える方、左手の席を取った。普段は座るはずのない、一番後ろの席に着くと、窓の結露をスーツの裾で拭い、私は外を見た。彼女がちょうど、こちらを見ていた。私も、彼女を見ていた。目が合った、と思った瞬間、私は一緒に傘に入っていた時より彼女が近くにいる気がした。スラックスの左ポケットからiPhoneを取り出すと、明日の天気を確認した。晴れ、気温は16度、降水確率は、10パーセント。10パーセントに、期待を抱いている私がそこに居た。
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