新年早々、タブーに触れたモヤシのボクは、田舎のヤンキーからブン殴られるのでしょうか。
正月、すばらしく暇だった。
ほぼジャージで過ごした。
家の中では普段からジャージ比率が非常に高い。ものすごく適当である。
そんな格好をしていると、
妻からに言われる。
「田舎のヤンキーみたい」
ひどい言われようだが、
マラソンを愛するボクは、色とりどり種類豊富にジャージを所有している。
もしかしたら、スタメンの外出着よりも多いかもしれない。
自覚をしていなかったが、
傍から見るとたしかにジャージで過ごすことに強烈なこだわりがあるように見える。
が、それでも田舎のヤンキーとは言いすぎである。学生時代、田舎で過ごし、田舎イズムの宿るボクは確信的にそれだけは言える。
彼らが着こなすのは
アディダスやナイキのジャージではなく、背中にでっかい‘’可愛い犬のロゴ‘’の入ったジャージである。
田舎では、
怖そうな兄ちゃんや、おっさんが
こんなにキュートなワンちゃんのロゴが入ったジャージを着て、
肩を揺らしながら商店街を歩き、
そして店に入るのだ。
キュートなワンちゃんは、
その存在だけでヤンキー性を示し、
空気を支配し、
相手を圧倒する。
それを着ているだけで
周囲から怯えたような、突き刺さるような視線が向けられるのだ。
それが快感。
KAIKAN。
これが‘’田舎ヤンキー‘’の
デフォルトである。
おおおっとっと、、、っと。
SNSでこう断言してしまうと
まずい。
ヤンキーを揶揄するなんて
スクールカーストを経験してきたボクにとっては、もってのほか。
タブーである。
現世をうまく渡り歩くには、
タブーに踏み込んではならない。
‘’田舎‘’とはけしからん!
ヤンキーと言うな、半グレと言いやがれ!
そう叫ばれながら
ヤンキーに、ブン殴られるかもしれない。
それはいやだ。
ボクのようなモヤシは、
殴られると死ぬほど痛い思いをするだろう。
叩かれたくない。
表記を特定できないように「●●のヤ●●ー」とでもしておこう。
年末年始ジャージ姿でゴロゴロしながらお笑い番組を見ていた
最近は、ネタの最中に、
‘’うわー!それテレビで言っちゃいけないやつちゃうか…‘’、
と心でつぶやくことが増えた。
めっぽう増えた。
もはやお笑い番組を素直に楽しめなくなってきている。
太った相方のお腹をさすりながら
「ぺったんこって言いながら餅ついて…」
という仕草ややりとりをみると
「見た目を笑いにするというのは、ちょっとあとでヤバいことになるんじゃね」
と思っちゃうし、
「アイドルは売れるために、心霊が見えると言い出してみたり、部屋が汚いと言い出してみたり……」
なんて毒吐きネタをみると、
そんな暗黙の‘’アイドルのキャラ作り‘’に、ぶっこんじゃうと、大御所から干されたり、共演NGにされたりしないのだろうか
なんていらぬ心配をしたり。
もはや面白いつまらない以前に
過剰なまでに
「これで笑っても良いのだろうか?」
みたいな考えにとりつかれてしまっているのだ。
お笑いって、基本的には
“変な人の行動や、変な見た目で笑わせる“
ものが多いから、
「出る杭を打ちたい人たちのサンプル採取場」となりつつあって、
周りが過敏になればなるほどに
「タブーに踏み込むネタ」みたいなのは、昔のようにウケなくなってきた、
ボクは、そんな気がしている。
いや、しかし
念のために言っておくけどもね、
こんなことを書きながらもね、
ボクは笑ったよ。
ヨネダ2000も、ウエストランド、も。
M-1をみて思ったが、やっぱり芸人さんたちも、確実に‘’その先‘’を見据えてきていると思った。
タブーに対して、その存在の境界から
‘’タブーに踏み込めない人やメディア‘’
を指さして冷笑する。
これって、もしかして
新しい笑いの形態かもしれないなって。
メガヒット中のアニメ映画をみた〈一部ネタばれ〉
1月3日、
6歳の次女と2人きりでおでかけをした。
というのも、実はなかじさんの大晦日の更新記事をみて、
あ、そういえば次女も
‘’すずめさんの、戸締まり観たい〜‘’
言うてたなぁ、ということを思い出し、
いよいよ手持ちの「暇つぶし」だけでは暇をつぶせない局面まで来ていたボクは、
ここぞとばかりに次女をデートに誘ってみた、という流れであった。
◇
最初に言っておくと
‘’すずめの戸締り‘’は
とても素晴らしい映画であった。
なかじさん号泣。おっさんでも泣く。
なるほど。
そりゃあ泣くな。頷けた。
上質なアニメであり、
エンタメとしても実によく完成されており、
ぜひとも映画館でみるべき作品だとボクは思った。
至極真っ当な映画の感想は、
ボクがイケシャアシャアと出る幕ではない。
それはなかじさんの記事に任せるとして、
やっぱり
すでに過敏症に罹患しているボクは、
ここでも純朴な気持ちで鑑賞することができなかった。
というのもこの映画は、
皆が指摘しづらく、取扱い自体の難しいものに、グイグイと入り込んでいるのだ。
‘’いや、そのタブーに踏み込んじゃうの?いいの?‘’
って。
誰がどうみようとも、
3.11‘’東日本大震災‘’が、ストーリーの柱であり、エンターテインメント映画らしからぬ
大地震のショッキングな様態をリアルに描写しているのだ。
新海誠監督らしいといえばらしい。
すごい挑戦的な映画である。
思えば累積売上293.6万枚、
歴代シングル売上げランキング4位のメガヒットを記録したサザンオールスターズの楽曲
‘’TSUNAMI‘’
東日本大震災以降、
いまなお懐メロ特集にあっても、地上波で聴くことはなくなった。
それまで名曲とされ、あれだけ各所で使われてきた楽曲でありながらも
日本社会において、被災者への配慮から、今もなお本作に触れることがマズいムードが如実に残っている。
にも関わらず、
この映画。
もう一度言うが、
‘’いや、そのタブーに踏み込んじゃうの?いいの?‘’
である。
現代の感覚にそぐわないものを、
‘’よくないもの‘’として封殺しようとする現代の風習に「ド直球でド真ん中ストレートでズバッと切り込む」をやっちゃっているのだ。
アニメでありながら。
それは震災の描写だけにとどまらない。
災害における
“被災者感情“や“トラウマ”
までもに、踏み込んでいる。
トラウマというものは、
災害によるものだけに関わらず
当事者にしかわからない酷く
第三者の取り扱いが難しい性質のものである。安易なコトバ掛け自体もそもそも正解がわからない。
が、
だからといって、
いつまで経っても臭いものに蓋というように”触れられないまま”であり続ける事が本当に良い事なのか、
その‘’是非‘’。
というか、この映画では
“非“
である。
‘’非‘’として踏み込んでいるのだ。
当たり前ではあるが、
嫌な思いに関わった全ての過去を笑って許せるわけではない。
けれども、人生は、
少なくとも”かわいそうなまま”で過去が定まってしまうのではなく、未来でその傷口から新しい何かが生まれることもある。
「良い環境」に身を置いたからといって、それだけで成功するわけではない。
「悪い環境」だからって失敗するわけではない。
未来はいつだって自らの力で明るくできる。
自分の足で立ち上がるしかない。
そんなメッセージを
タブーをものともせずに強烈にぶっ放しているのだ。
◇
すごいな、って。
映画も芸人さん同様に、
確実に時代の‘’その先‘’を見据えている。
タブーに対して、その存在の境界から
‘’タブーに踏み込めない人やメディア‘’
を指さして冷笑する。
過敏に言葉尻を捉えて炎上させる風潮から一周回って、そんな新しい風潮がポツりポツりと生まれてきたのかも、
って、年末年始のお笑いや映画を観て思った。
そうか。
このnoteでヤンキーにビクビクしているオレなんて、しょっぱいちっぽけなおっさんだな。
だめだな、って。
でもね、勘弁してね。
モヤシのボクなんてのは、
ブン殴られるなんてすると
力学的法則に従って緩い放物線を描きながら
5m近く吹っ飛び、
血を流しながら壁にメリこんで意識を失っちゃいまんねん。
ということでね、
2023年、あけちゃいましたね。
本年もこんな感じのユルユルでいきますので、どうぞよろしくお願いします。