「自粛疲れ」「コロナ疲れ」… そうだ、あの地へ行こう。
‘’行きたい‘’ところがある。
いや、違う。
‘’帰らなければいけない‘’ところがある。
多分、どんな人の人生にも
‘’忘れられない事件簿‘’
というものがあって、
ワタシにもある。
頭にこびりつくほどに辛い思いをした記憶というものは、
耳アカのようにゴリゴリやったって
キレイすっきり削りとれるものではないし、
アプリのように新しいものにアップデートしたって、より良きものに置きかわるほどシンプルなものでもない。
白い画用紙に鉛筆でなぐり書きしたものを
消しゴムでゴシゴシやってもそこには筆圧が残り続けるように、
記憶からアンインストールするには脳を入れ替えるしか、
たぶん方法はない。
と、ここまで詩的に書いてはみたが、
‘’耳アカ‘’の下りは、話の情緒を壊滅的に台無しにするので一旦忘れて頂きたいが、
とにかく辛い思いをした記憶というものは、「えい!」と水平線の彼方にぶん投げたとしても、物思いにふけるとすぐに地球をグルリと一周して舞い戻ってくる。
なんとも厄介極まりないものである。
−−−−−−−−−−−−
あれはいつだっただろうか。
あぁ、小学校6年生のときだ。
生涯、忘れることのない
そんなインパクトのある事件が発生した。
当時4歳だった妹が迷子になったのだ。
驚くことなかれ。ただの迷子じゃない。
村民総出の捜索に発展した
それはもう‘’大騒動‘’となったのだ。
母親の近くにいたい。引っ越し、転校、田舎暮らし
気合だ!気合だ!気合だ!
と、アニマル浜口のように自分を奮い立たせてみても、人生は思い描いた通りに進められない出来事で溢れ返っている。
それでも不自由なく生きていられるのは、人間はパラダイム・シフトに適応する生き物であるからだ。環境が変化しても、その都度に自分たちで考え、気付かないところで周囲と譲り合いながら乗り越えるための画策を続けている。
と、書いてはみたものの、迷ったあげくに足した「アニマル浜口」のスパイスがあまりにも強過ぎて、描きたい世界観から一番遠いところにある‘’ワイルドな印象‘’を与えてしまう文章になってしまった。
すまん、
だから‘’アニマル浜口‘’のことはやっぱり一旦忘れて頂きたいが、
とにかく、特筆すべきは
人生は先が見えないということだ。
小学6年生のときだった。
とある田舎の専門病院に長期入院した母親の近くで過ごそうと、一家丸ごと農村の古い一軒家に引っ越すことになった。
少しだけ当時のワタシの気持ちになって考えてみてほしい。
時代は移りゆき、取り巻くものは刻一刻と変化している。
今は、転校してもクラスというコミュニティで作られていたLINEグループは、翌日以降も何ら変わることなく引き継がれていくであろう。
しかし、携帯もスマホもなかった時代にあって、すでに形成されていたコミュニティをリセットして、新天地で新たな人間関係をつくりあげていくことは、それなりの労力を要する。
多感な思春期において
心を費やすし、
時間も費やす。
転勤がない職場に勤めていた父親にあって、こんな日がくるなんてまさに
青天の霹靂。
直前まで、まったく想像しない未来であった。
引っ越し初日からてんやわんや
やってきたところは、季節の移ろいを感じやすい緑豊かな自然に囲まれた環境で、家の周囲は青空を映す水田に囲まれていた。
片田舎の農村で、長いこと誰も住んでいなかった‘’古い一軒家‘’といえばイメージができるであろうか。
テラス屋根の木造の柱は、手をかけると崩れそうになるし、風呂はタイル張りの丸い五右衛門風呂。さらに手押しポンプの井戸が郷愁を誘っていた。
家に一歩踏み入れると想定していたとおりに、あれだ、あれ。
あの恐怖が待っていた。
屋根裏部屋に入ると、
サワザワザワー、ガサガサッ、ガサガサッ
そう、あいつだ。
忍者のように突然現れたかと思うと、光が当たった瞬間に素早く動いて雲隠れする。
もはや、みなまで言う必要もなかろう。
あの安定の恐ろしさを放つ
‘’黒い生き物‘’
それが何匹も、何十匹もいたのだ。
まさに生死を掛けた攻防戦。
古家で迎えた生活のスタートは、まるで‘’お化け屋敷‘’で過ごしているような恐怖だった。
ワタシの生活は一変した。
今までとまるで違う慣れない環境にあって、夜遅くまで働く父親に変わって、毎日妹の面倒をみて、しつけをして家事をこなす。
本来であれば母親が担うべき役割を、自然にワタシが担い、その環境が自分自身の確固たる「しっかり者の子ども」としてアイデンティティを形成していった。
一方で4歳の妹は対照的で、天真爛漫であった。
思えばよく迷子にもなった。
それを探して助け出すのが、ワタシの役目。
聞き分けが悪くて、何かを言い出したら、絶対に人の意見を聞かない。
だから常にワタシはその尻拭いをしてきた。
わかりやすく式にしてみようか。
妹+尻拭い=ワタシ
つまり
尻拭い=ワタシ−妹
上記の不毛な公式は、
本筋とは、とんでもなく関係性が薄いため、キレイサッパリと忘れて頂きたいが、何が言いたかったかと言うとワタシは妹の‘’尻拭い‘’をしていたということだ。
ただ、それだけのことを書きたかった。
先ほどから何度もくだらない挿入文を入れる同じ過ちを繰り返して、話が一向に進もうとしない。
たいへん申し訳ない。
そろそろ読者が唯一気になっているであろう‘’大騒動‘’の話にいかなければならない。
箱根駅伝のタスキのごとく、
ここまで読み進めてくれた読者の熱い思いを受けとって、さすがにこれ以上に裏切る訳にはいかない。
アニマル浜口しかろくに爪跡を残せていない現状の記事を振り返って反省し、
それくらいの常識と危機感をもってこの後は綴っていきたい。
村民総出の大騒動
うだるような暑い夏の日。
夏休みだったワタシのもとに病院から、母親が体調を崩したとの連絡があった。
ハッとした。
かあちゃん、死んじゃうかもしれない。
あたふたしてしまうワタシ。
真っ白になる頭の中。
途端に、これまで張り詰めていた糸が限界に達してぷつりと切れてしまい、
部屋に倒れ込み、目を瞑った。
どこからともなくずっと我慢してきた涙がボロボロと溢れ出てきた。
拭うこともせず思いっきり涙をこぼす。
でもそれが、少しずつ自分を取り戻す唯一の方法な気がした。
さっきまで一緒に遊んでいた妹のことはもはや、頭の片隅にもなかった。
いっぱい泣いて、泣き疲れて
しばらくして、ふと我に返ったとき。
あ!
気がついたら庭に妹がいない。
家の中にもいない。
あれ!?どこにもいない。
4歳児なんて絶対に目を離してはならない。
そんなことわかってる。
やっちまった・・・。
自責の念に苛まれる。
さすがにそんなに遠くへは行けないはずだ。
ここから大捜索が始まった。
美しい夕焼け。ヒグラシの鳴く夕方。
丘の上で迷子になった妹を必死に探した。
しかし、どうしてもみつからない。
村中の人たちが総出で捜索してくれているのにそれでもみつからない。
まずい。
暗くなったら捜索の難航は予想される。
こうなったら、
こうなったら、仕方がない。
ワタシは決断した。
藁にもすがる気持ちで
しげみのトンネルへと走ったのだ。
そして叫んだ…
「トトロ!メイが迷子になっちゃったの。探したけど、見つからないの。お願い、メイを探して!今ごろ、きっとどこかで泣いてるわ。どうしたらいいか分からないの・・・・」
トトロはワタシを抱きあげると、木のてっぺんにとび上がりネコバスを呼び寄せた。
しばらくしてやってきたネコバスにワタシは乗り込み、夕やみの中、お地蔵様のそばにいるメイを見つけることができた。
あの地へ行こう、行きたい、行かなければ
我が家の子ども3人は
「となりのトトロ」が、大好きだ。
定期的にブームが訪れる。
そのブームは突然やってきて、数週間の内に情熱的な時間が嘘だったかのように、
さよならも言わずに爽やかにさっていく。でも刹那的だからこそ、その限られた時間だけは情熱的に愛することができるとも言える。
その情熱的な時期が、
いまちょうど訪れている。
この期間は、子どもたちは休みの日には朝も昼も夜もトトロを見たがる。
「トットロ♪トット〜ロ♪」
家にいてご飯の時間以外はそればかり。
圧倒的な中毒性だ。
大人であるボクもいつのまにか登場人物に感情移入し、こうしてなりきってしまう。
以前は、メイになりきって迷子を堪能したが、いまはサツキだ。
オレとサツキ。
一人称が‘’ボク‘’から‘’ワタシ‘’
危険な化学反応を起こし、とめどなくカオスを生み出してそれらしい雰囲気のマントを羽織るのだ。
だからサツキの思いも乗せて
いま言いたい。
ノスタルジックな世界観が詰まった
あの家に。あの風景に。あの想い出に。
電気炊飯器もガス風呂もない日々の暮らし。
身近にたくさんの生き物たちが棲み、生き物たちと共生する世界。
それらとの感動の‘’再会‘’を果たすために
行こう。
行きたい。
行かなければ。
2022年11月開業ジブリパークへ。
※ 「となりのトトロ」本編に登場する草壁サツキと本記事に登場する‘’ワタシ‘’とは全くの別人であり、妄想癖のあるライターが勝手にサツキの世界感を堪能したまでで、両者には一切の関係がございません。
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