‘’一年に一度、自分に感動する日。それを味わうために限界に挑戦するんですね‘’(情熱大陸風の自分語り)
「あなたはなぜ山(エベレスト)に登るのですか?」
「そこに山があるからだ」
登山家ジョージ・マロリーのあまりにも有名な言葉である。
‘’山に登る‘’
ただ、それだけの行為なのに一度ハマってしまった人は、どんなに酷い目にあってもやめられなくなってしまう、
というエピソードをよく耳にする。
ボクらの信じられない世界が、
ここにあるのだ。
明日、第20回丹後100kmウルトラマラソンに出走します
2年間のコロナ休止を挟み、
これで6度目の挑戦となる。
限界に挑戦する自分に感動する日。
一年間、それを温かく見守ってくれた家族に感謝する日。
そんな優しくなれる一日が、
明日なのだ。
4時30分に2000人が一斉にスタートし、日中は30℃を超える天候の中、標高250〜400mの山を3つ越え、
3箇所の関門をのり超え、たどり着いた先のゴールは14時間がタイムリミットとなる。
暑いし、苦しいし、胃が飲食物を受け入れなくなるし、身体中が疲労困憊で全てが痛くなる。さもすると、自身のデビルが
‘’さっさとやめちまえ‘’
と耳元で囁き始める。
年によっては、
大雨でビショビショになりながら、風景に恵まれず単なる苦行になるときだってある。
この日に限ったことじゃあない。
たった一日のために、
月間150kmを超える走行距離をこなし、休日は20km走をいれる。
いろんなことを犠牲にして、
たくさんの時間を費やし、
オレ、なにやってんだろう、
なに目指してんだろう、って。
ふと我に返ると自己嫌悪に陥ることなんて、しばしば。
残酷なのは、そこまでの苦行をしたって、
100kmマラソンというのは、当日まったく予想もつかないトラブルが起こることがあるし、完走が約束されるもんじゃない。
鍛えぬいたランナーが集って、完走率50%程度というのは、まさに過酷さを物語るには十分すぎる数字であろう。
だから、
とてもではないが万人におすすめできない。
苦行、まさに地獄である。
うん、だがね。
それがいい。
それがいいのだ。
決して生まれながらの「どM」ではない。
「なんで走るのか?」という問いに対して
「自分が今、できうるものの中で一番キツいから」
と、きっと答える。
そう。多くの人にとって
信じられない世界が、ここに‘’も‘’あるのだ。
ボクは、長距離走が好きだったわけじゃない。
高校まで運動部で精をだしながらも、ナニモノにもなれなかったボクは、大学でスポーツの一切をやめた。
そして、青春キャンパスライフを思いっきりワイキャイ楽しんでいる最中に、大学でもプロや実業団を目指してスポーツに没頭し汗を流す人を横目でみながら、
ふふっ
今は良いかもしれないけれど、
スポーツでお金を稼げたり、ちやほやされたりするのは若いうち、現役のうち、それも、好成績を収められる間だけだからな、
スポーツというのは
ほんの一握りの
ほんの一瞬の輝きだからな
なんて、心のなかで毒づいていた。
ボクはちゃんと就職して、出世して、お金もちになって、幸せな家庭を築き、将来に一抹の不安も抱えない、
そんな人生を歩むんだ、
と自分に言い聞かせていた。
が、
結果的には
そこそこ有名な大学を卒業し、
そこそこ有名な会社に入社し、
そこそこ人並みに出世し、
そこそこお金にも困らず、
極めて‘’平凡な毎日‘’を過ごし、
気づけば寿命を消化していくだけの人生をおくっていた。
残念ながら、
‘’そこそこ就職の世界‘’もボクにはあまり向いていなくて、結局のところ、
金曜日がくると嬉しくなるし、
サザエさんというのは‘’嫌なババア‘’以外のナニモノでもないし、仕事やらなくて良いのであればやりたくない。
ああ面倒臭いなあ〜、
あと5年以内にFIREしたいな〜、
という感覚をもち続けながら仕事をしている。
結局、‘’そこそこ就職の世界‘’にも
スゲェやつがいることがわかった。
無理やり自己洗脳をしているわけでもなく、他者からの評価のためにドヤ顔で成果を公言するわけでもなく、仕事を純粋に楽しみ、仕事の時間を仕事以外の時間よりも“良い”と思っている人たちが一定数いる。
同じ土俵のこういうヤツらには、絶対に勝てない、ってことを悟った。
約10年前の33歳のとき…
実母が大病を患って、
とある臓器が不全となり、父親の一部の臓器を移植手術するという、我が家にとっては命の尊さを真剣に考えさせられる大騒動があった。
両親の命をかけた長時間の手術中に
ボクはいろんなことを回想し、そして思った。
若いころ、
‘’ほんの一瞬だけ‘’とバカにしていた、
‘’その一瞬‘’すらをも輝けず、多くの人は誰にも知られることもなく、生きて、死んでいくんだろうなぁ、って。
もちろん、ボクも含めて。
そのうち本気出してやる!……いやぁなんかめんどくさいな……子どもが落ち着いてから……う〜ん今年は仕事が忙しい……もうちょっと時間ができたら……えっ、ええ?オレ、癌なの?……でも、いまの医学なら治療できるよね……ええええ手遅れ?……いや、まあ平凡だったけれど良い人生だったかな……
おそらくきっとボクの人生もそんな感じで、あとは子どもに夢を託して、
自身は寿命を‘’平凡に‘’消化して終わっていくのだろうな。
いや、、
平凡が決して悪いことじゃない。
でも、
‘’はやく授業が終わらないかなー‘’
そうソワソワしながらチャイムがなった瞬間に、教室を飛び出した時のあの瞬間の、あの喜びをいつからボクは忘れてしまったのだろう?
最後に子どもの頃のように腹の底から自分の成長や成果に感動したのは、いったいどれぐらい前の話になるだろう?
ナンで今は昔のように自分自身の成すことに感動すらできなくなってしまったのだろう?
朝起きて会社に向かうのが辛いだとか、
お金大丈夫だろうかとか、将来が不安だとか、気づけばいつしかそういう苦しい要素ばかりを気にするようになってしまった。
そんな思いをパラパラ巡らせていくうちに
あのとき心のなかで毒づいたはずの
スポーツで限界に挑戦して、燃え尽きるような生きざまが、なんだかとても美しくみえるというか、それはそれで良いのではないか、という気持ちが、フツフツとわき上がってきてね。
あぁ、自分に感動する人生のスパイスが欲しい。オレすげぇ。パパだってやればできんじゃん。
こんな抑えきれない内なる衝動、承認欲求、自己顕示欲。
そんなんが欲しい。
いっぱい欲しい。
そうだ!マラソンをやろう
マラソンだったら一人で始められて、限界に向き合うことができる。身体的、心理的に燃え尽きた先のゴールは、自身の努力を労って最高に感動すると聞く。
そうして、、、
思い立ったが吉日。
ほどなくしてボクのチャレンジはスタートした。
初めてゴールしたとき、
初めて3時間半切りを達成したとき、
それはもう、そのとおりだった。
大人になってもこんなに自分に感動できるものなのか、またこの感動を味わいたい、そんな中毒性の高い不思議な感覚に見舞われたのだ。
しかし、その感動は長くは続かなかった。
開催されるマラソンイベントと完走者数が増えていくにつれ、ボクの中で42.195kmは徐々にその神秘的な雰囲気を失っていった。
ゴールして当たり前。
ゴールに特別感はない。
そうなるといつしか
マラソンよりも長く、タフで、参入障壁が高い “ウルトラマラソン” の完走を目指すようになった。
なんで、そんな過酷なものに挑戦するの?
ゴールして、なんの意味があるのか?
何度も挑戦し、ゴールしてきたが、
‘’意味がある‘’とか‘’役に立つ‘’とか
ボクは未だに分からない。悟りの境地に達しない。
けどね、
ゴールテープを切るときにはいつも感極まって、ぐちゃぐちゃになる。
ゴール地点のラスト1kmあたりから多くの人たちが「おかえり!おかえり!」と拍手で出迎えてくれる。おじいちゃんも、おばあちゃんも、地元の多くのボランティア、そして先にゴールしたランナーたちも。
みんな、みんな一体化する。
そのいつも聞き慣れている「おかえり!」という言葉が心に響き、たまらず涙をこらえきることが出来なくなる。
そんな映画のワンシーンのような世界が
ボクを魅了するのだ。
本来、人生というのは広大な遊び場のようなものなので、目の前には遊びきれないほどに素晴らしいコンテンツが沢山転がっている。
だから苦行なんかじゃない。
ゴールができるかどうかわからない。
そう、だからこそ楽しい。
だからこそ感動する。
さてさて。
3歳若い自分に挑戦しに行ってきますね。